2011年3月12日土曜日

首都圏大揺れ。政治ではなく大地が・・

ちょうど神田の、とある事務所におりました。10階建てのビルの3階。
最初は揺れている感じだけだったものが、やがて大きな揺れになり、パソコンは倒れるは棚から書類関係が落ちるやら。
事務所の女性が、ついていた電気ストーブの電源を切り、表に出ましょうと誘導。非常階段で降りました。
表に出ると、回り中のビルから大勢の人が路上に出て、しかも車道の真ん中に集まります。
自動車は止まってしまって、やっと地震に気がついたのか、警笛も鳴らさずにおりました。

ビルの窓ガラスが割れたら、落下事故が悲惨ですから皆さんそのことをよく知っているのでしょう。ですから自動車道の真ん中に立っているわけですね。
驚いたのは首都高速。阪神淡路大震災の教訓でやたらと鉄板を張っているから、ものすごい音がしていました。鉄板をよじったりぶつけたりするような大きな音で、それがまた恐怖を増強します。
その上を、おそらく何も知らないであろう自動車が走っている構図は何とも言えませんね。

事務所の中に戻って、パソコンを元に戻したりしてその後の対策を話しましたが、東京のライフラインはビクともしていませんでした。電気は来ていますし、ガスも水道も、そして一番問題の水洗トイレも無事でした。
事務所に一緒に居た佐渡出身の方が、新潟地震を体験しておられて、あのときよりも大きく怖かったと言っておられました。

ときおりやって来る大きな余震にビクビクしながら、唯一止まったライフライン「電車」のニュースを聞きながら、ただちにコンビニに買出しに行きました。しかしパンとお弁当の類はすべて売り切れ。飲み物とすぐに食べられるソーセージとかスナック菓子類を少し買って戻り、仕事のけじめをつけてから、インターネットのニュースを調べ、6時過ぎに近所のラーメン屋で腹ごしらえとテレビニュースの確認。
食べ終わるころ、店内は超満員となってしまいました。

無理な帰宅はしないようにとの政府の発表です。この事務所では、歩いて帰宅出来る者と出来ない者を分けて、歩ける者は8時に出発。遠距離の者は事務所で就寝場所の確保・・と決めていました。私は帰宅組みです。(世田谷までは遠いですけど)
携帯電話はまったく通じず、インターネットのメールで連絡。8時に事務所を後にしました。
千葉の工場のことが気になりますが、電話は通じず、メールの返事もないまま、ともかく一旦自宅に撤収です。

細かい道は万が一倒壊家屋などで塞がっていたら困るので、靖国通りを靖国神社まで行って、内堀通りを三宅坂まで。そして青山通りを渋谷まで歩きました。首都高速が全線通行止めとなり、車がすべて一般道に集中。異常な渋滞を引き起こしていてまったく動いていません。
こんな時、自動車で移動しようなんて、まったく危機管理の鈍感さにはあきれます。
非常時の車が動けないではないですか!
大勢の人の群れがぺちゃくちゃしゃべりながら、楽しそうに歩いていました。が、赤坂を過ぎ青山一丁目の手前で老人が一人倒れていて、介護している若者と、救急隊の人が担架を車から降ろしているところに出あいました。

人の群れの中を歩きながら、あれだけ揺れても倒壊したビルは無く、九段会館も建物は無事です。東京は丈夫だなぁと感しました。
電気もかろうじて止まらず、トイレも正常。渋谷の公衆トイレは長蛇の列でしたが、皆静かに並んで混乱はありません。ときおりやって来る余震も、歩いているとあまり感じません。
バスは道路が動けない状態と考えて乗らないで、結局自宅まで歩き通し、自宅に着いたのは11時30分。3時間半かかりました。

直撃ではありませんでしたが、ついにやってきた大型地震。「東北・太平洋沿岸地震」と名づけられたようですね。つまり「東海地震」の可能性はまだ残っているということでしょうか?
一夜が明けましたが、まだ余震は続いています。宮城県、青森県などの被害が次第に明確化し、その被害の大きさには震撼するばかりです。
動いた断層が南北200km、東西100km。記録に残る地震では過去最大規模。

工場からは、ともかく怪我人は居ないとの連絡。工場は停電し、まだ内部の確認は出来ていないとのこと。
11時現在、まだ首都高速の半分と東関道は不通です。

まだ余震が時折発生しております。神戸の友人から電話があって、余震は2ヶ月くらい続くということでした。
これに触発されて、東海地震が起きなければいいのですが・・・
菅政権も、ただちに対策本部を設け、自衛隊の出動要請もしたようです。前回、阪神淡路大地震の時、サヨク村山政権が自衛隊出動命令を出さなかったこと(大幅に遅れたこと)で被害が(死者数が)大幅に拡大したこと、こんどの民主党政権は忘れてはいなかったようですね。

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