2018年10月31日水曜日

移民政策とODA

安倍政権は移民という言葉を使わずに移民政策を推し進めているように見えます。
入館難民法を変えて技能という言葉を使い「特定技能1号」と「特定技能2号」を設定し、1号は在留期限が5年で家族帯同を認めない(つまり今までと同じ)と言うことですが、2号は事実上の永住を認め配偶者と子供の帯同を可能とする、事実上の移民容認という政策です。

この法改正の理由が「深刻な人手不足」と言うことです。しかし青山繁晴参議院議員や経済評論家の三橋貴明氏によりますと、2020東京五輪の後は人余りになる見込みであり、また、土建業の合理化(近代化・ITなどの応用技術)を行えば人手不足は克服できると述べております。

この疑似移民政策は安倍政権に掛かる外圧が原因かと思います。欧州がその政策の失敗で中東の難民を大量に受け入れて治安が維持できなくなるまでに至り、移民を受け入れない日本に圧力を掛けてきているようにも思います。
アメリカはもともと移民国家です。ですから移民受け入れの法律もしっかりしていてクールでドライな対応が可能ですが、我が国にはそんな法律も対応慣習もありません。

それは我が国は移民国家ではないからだと思います。
2678年前に神武天皇がこの国を建国した際、周辺に居る国(国と言っても集落のようなもの)を襲撃するのではなく、農業という技術を継承して行くことだったからです。
「八紘一宇」の考え方は、「豊になる技術を伝え、ともに栄える」ことであると解釈できるからです。

「天皇」が必要だった理由は、この米作の技術には「こよみ」を如何に取り扱うか、そして労働の集約化をいかに行うか、その必要性から来ていると思うのです。
まだ人々が狩猟採集生活に近く、栗林、粟や稗、野菜などの栽培で生計を立てていた時代です。横穴式住居や、草・灌木を使った住居生活の時代に、稲の水耕栽培を行うのですから労働集約には何かの権威(宗教的感動)を使う必要があり、そこで「天皇」という「こよみを司る指導者」が必要だったのでしょう。

古代エジプトのファラオなども、洪水で腐葉土が運ばれてきたあとの麦の耕作を行う「労働集約」のための権威としての必要性から生まれたものだったのではないでしょうか。

そこに北方から羊飼いの集団が移民し始めます。壮大な草原で羊を飼って生計を営んできた彼らは、労働集約の意味が解らなかったのでしょう。
「労働は神の罰である」とする文化と、労働集約のための権威を必要とする文化の対立を、羊飼いの立場から見て書かれたのが旧約聖書(バイブル)だと思います。

現代の我々の生活は、欧州文化の延長にあります。哲学者のデカルトが「方法序説」によって分析科学を創出し、産業革命によって生産性が格段に上がり、科学が技術を触発して、その連鎖が近代文明を作り上げてきました。
そして今、その技術格差が経済格差を生んで、その結果が移民問題となっているのだろうと思います。

我が国は「労働集約のための権威を必要とする」文化です。明治になって、近代技術を西洋から取り込み、和魂洋才という概念を持って近代化に成功したわけですが、その結果戦争に負けたこともあって「労働は神の罰である」という文化が国民に浸透してしまったようです。
「個人主義」という生き残りをかけた競争社会が浸透してきたからです。これを浸透させることによって、資本主義的収奪が可能になるわけで、その結果として我が国に「移民受け入れ」の圧力が高まって来たように思います。
「我が国民」は、個人主義というフィールドになれば華人に負けてしまうでしょう。「集団主義」でなければ勝ち目はないからです。

華人には「労働は神の罰である」という観念はありません。「弱い者が強い者に貢ぐ」という観念があるだけです。
ですから一見「個人主義」と同じように振舞いますが、個人主義のような個人の技量はあまり関係ないようです。

八紘一宇の近代版がODAではないかと思います。「政府開発援助」ということですが、これが欧米の「移民受け入れ」と同じ意味を持っているように思います。
つまり相手国から我が国に移ってくるのではなく、「相手国に資金と技術を教えて繁栄してもらう」という考え方です。

この考え方が判らない欧米から、「日本は移民を受け入れない。問題だ」と圧力を受けているようにも見えるのですが・・・

相手国から移民を受け入れてうまく行ったとしても、相手国は貧しいままではないでしょうか。
これでは相手国の為にはならないように思います。
個人主義であればこれでいいのかも知れませんが、我が国の集団主義の伝統から見れば「無意味」なことなのです。

ですから「移民政策」には反対なのですが・・・

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