パリ経済学校・社会科学高等研究院 の研究代表者トマ・ピケティ氏が来日しています。
ピケティ氏と言えば、世界的ベストセラー「21世紀の資本」の著者であることは有名ですね。そして今や世界中を席巻している新自由主義に真っ向から理論で挑んでおります。
そのピケティ氏の来日で、日本のマスコミが群がり「日本はどうすべきか」などという愚門を投げかけていることに、産経新聞特別記者の田村秀男氏が苦言を呈しております。
「ピケティ氏に『どうすればいいですか』と聞くのはまさに欺瞞を通り越して、滑稽そのものではないか。」と言うのです。
さすがにピケティ氏もあきれて、「私は日本に勉強をしに来たのであって、日本にどうすべきかを言うために来たのではない」と、ごく当たり前の返事をしております.。
アメリカで新自由主義に傾斜してしまったケインジアンのグレッグ・マンキュー教授と対決したことは以前のこのブログに書きました。
新自由主義とか新古典派などと訳の分からない言葉で「トリクルダウン」などというまやかしの経済学を展開し、ようするに金利生活者(つまり富豪のこと)に都合のいい経済学を振舞わしてきた経済学の常識に対して、真っ向から反論しているピケティ氏の人気ぶりは、固定化しつつある格差社会に穴をあけるべく、その期待を一身に受けているように見えます。
経済学がなく、富が貴金属や宝石によって語られていた時代は、ミクロ経済学だけで十分でした。収入と支出をバランスさせ、取引をしながらプロフィットを紡ぎ出していくことで豊かになることが出来ました。
しかしこの富はとても不安定でした。通貨は権力の失墜で紙屑となり、集めた貴金属や宝石は暴力的に奪い取られ(戦争など)、あっという間に富を失うことが普通の社会でした。
通貨を安定させるには、安定した権力が必要であり、その権力は民主主義によって構築される国民国家で実現されることに気が付いた人類でした。
権力の変遷は国民の投票行動によって行われ、通貨と権力を切り離すことを考えた人類は、主権国家の権利の一つに「通貨発行権」を加えました。
中央銀行というものが政府の別組織として作られ、そこで便宜上、中央銀行の借用書という形式で通貨が発行されました。
市中銀行がこれを借りて借用書を出します。この借用書は中央銀行の資産勘定となり、複式簿記はバランスします。市中銀行からは一般企業などに貸出し、その借用書が市中銀行の資産勘定となります。
こうして中央銀行から始まる「複式簿記」の連鎖が、通貨という形式を媒介にして「経済社会」を作ることに成功したのです。
「複式簿記の連鎖」はその後に続く多くの取引きによって活性化し、取引きで得られたプロフィットが配当として振り向けられる株式会社制度が生まれます。
プロフィットの総計が増えていき、それは国家を繁栄させ、国民が豊かになって行きました。それですべてうまく行く予定でした。(マクロ経済のスタートです)
ところがそこに、貴金属や宝石で過去から富を受け継いできたグループが参加してきます。国民国家の中にある株式会社に貴金属などの富を持って投資を行い、そこに生まれていたプロフィットのほとんどを持っていってしまうのです。
国民国家の国民にはプロフィットが回って来なくなります。国民は貧乏になり、数名の貴金属などの財産を先祖から受け継いできていた富豪(金利生活者)だけがますます豊かになって行くのです・・・
まあ短絡的に表現すると、ピケティ氏の言う「資本収益率が経済成長率を超えると格差が広がる」と言う意味は、このような事になるのではないでしょうか。
富豪(金利生活者、あるいは投資家)が必要以上に豊かになることは、あまり社会に良い影響は与えません。と言うより、社会的に意味がないのです。
我が日本国は、あまり外国の資本を受け入れておりません。国内資本で豊かになれるからです。外国の資本受け入れは、政治的な交渉を何度も行い、無理やりに受け入れさせられているような節もあります。
日米の資本収益率Rと実質経済成長率Gの差(R‐G)の推移を表にしますと、2001年頃までは日本がアメリカに追いつくように上昇しています。しかし2001年以降はアメリカが上昇しているのに対して日本は横ばいのようにのたうっています。
我が日本国には、「額に汗して得たものこそが本物」という本物指向があり、金利生活を良しとはしない傾向があります。
そのために2001年以降のアメリカ追従型格差社会には抵抗があったのではないでしょうか。
ピケティ氏は、資本収益率が経済成長率を超えないようにする方法を求めて、日本を研究したいのではないでしょうか。
「額に汗して得たものこそが本物」と言う価値観に加えて「仕事を通して修練するのが人の道」などとなり「極めた者はその技の神様となる(神技です)」という「神の国・日本」がピケティ氏に理解できるかどうかに掛かっているように思えるのですが・・・
そのピケティ氏の来日で、日本のマスコミが群がり「日本はどうすべきか」などという愚門を投げかけていることに、産経新聞特別記者の田村秀男氏が苦言を呈しております。
「ピケティ氏に『どうすればいいですか』と聞くのはまさに欺瞞を通り越して、滑稽そのものではないか。」と言うのです。
さすがにピケティ氏もあきれて、「私は日本に勉強をしに来たのであって、日本にどうすべきかを言うために来たのではない」と、ごく当たり前の返事をしております.。
アメリカで新自由主義に傾斜してしまったケインジアンのグレッグ・マンキュー教授と対決したことは以前のこのブログに書きました。
新自由主義とか新古典派などと訳の分からない言葉で「トリクルダウン」などというまやかしの経済学を展開し、ようするに金利生活者(つまり富豪のこと)に都合のいい経済学を振舞わしてきた経済学の常識に対して、真っ向から反論しているピケティ氏の人気ぶりは、固定化しつつある格差社会に穴をあけるべく、その期待を一身に受けているように見えます。
経済学がなく、富が貴金属や宝石によって語られていた時代は、ミクロ経済学だけで十分でした。収入と支出をバランスさせ、取引をしながらプロフィットを紡ぎ出していくことで豊かになることが出来ました。
しかしこの富はとても不安定でした。通貨は権力の失墜で紙屑となり、集めた貴金属や宝石は暴力的に奪い取られ(戦争など)、あっという間に富を失うことが普通の社会でした。
通貨を安定させるには、安定した権力が必要であり、その権力は民主主義によって構築される国民国家で実現されることに気が付いた人類でした。
権力の変遷は国民の投票行動によって行われ、通貨と権力を切り離すことを考えた人類は、主権国家の権利の一つに「通貨発行権」を加えました。
中央銀行というものが政府の別組織として作られ、そこで便宜上、中央銀行の借用書という形式で通貨が発行されました。
市中銀行がこれを借りて借用書を出します。この借用書は中央銀行の資産勘定となり、複式簿記はバランスします。市中銀行からは一般企業などに貸出し、その借用書が市中銀行の資産勘定となります。
こうして中央銀行から始まる「複式簿記」の連鎖が、通貨という形式を媒介にして「経済社会」を作ることに成功したのです。
「複式簿記の連鎖」はその後に続く多くの取引きによって活性化し、取引きで得られたプロフィットが配当として振り向けられる株式会社制度が生まれます。
プロフィットの総計が増えていき、それは国家を繁栄させ、国民が豊かになって行きました。それですべてうまく行く予定でした。(マクロ経済のスタートです)
ところがそこに、貴金属や宝石で過去から富を受け継いできたグループが参加してきます。国民国家の中にある株式会社に貴金属などの富を持って投資を行い、そこに生まれていたプロフィットのほとんどを持っていってしまうのです。
国民国家の国民にはプロフィットが回って来なくなります。国民は貧乏になり、数名の貴金属などの財産を先祖から受け継いできていた富豪(金利生活者)だけがますます豊かになって行くのです・・・
まあ短絡的に表現すると、ピケティ氏の言う「資本収益率が経済成長率を超えると格差が広がる」と言う意味は、このような事になるのではないでしょうか。
富豪(金利生活者、あるいは投資家)が必要以上に豊かになることは、あまり社会に良い影響は与えません。と言うより、社会的に意味がないのです。
我が日本国は、あまり外国の資本を受け入れておりません。国内資本で豊かになれるからです。外国の資本受け入れは、政治的な交渉を何度も行い、無理やりに受け入れさせられているような節もあります。
日米の資本収益率Rと実質経済成長率Gの差(R‐G)の推移を表にしますと、2001年頃までは日本がアメリカに追いつくように上昇しています。しかし2001年以降はアメリカが上昇しているのに対して日本は横ばいのようにのたうっています。
我が日本国には、「額に汗して得たものこそが本物」という本物指向があり、金利生活を良しとはしない傾向があります。
そのために2001年以降のアメリカ追従型格差社会には抵抗があったのではないでしょうか。
ピケティ氏は、資本収益率が経済成長率を超えないようにする方法を求めて、日本を研究したいのではないでしょうか。
「額に汗して得たものこそが本物」と言う価値観に加えて「仕事を通して修練するのが人の道」などとなり「極めた者はその技の神様となる(神技です)」という「神の国・日本」がピケティ氏に理解できるかどうかに掛かっているように思えるのですが・・・
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