2015年2月18日水曜日

慰安婦騒動、植村記者の怒り

朝日新聞社の記者で、慰安婦問題を取り上げ記名記事を書いてきた「植村隆氏(56歳)」が、「『慰安婦報道』と言論の自由」という演題で高知市で講演を行ったと言うことです。

もちろん内容は「私は捏造記者ではない」ということで、現在保守系団体などから指摘されていたり、週刊誌などに書かれた誹謗中傷記事に対しての怒りの講演です。

この講演の中で、植村記者の家族、特に娘さんにまで誹謗中傷、嫌がらせの電話や書き込みなどがあったと述べられています。そうであれば、このようなことに対して植村記者が怒るのは当然でしょう。
この問題は警察などによる犯人調査を進めるなどして、犯罪として処置するべきです。もちろんそれが、植村記者を誹謗する目的でなく、慰安婦騒動での植村記者を被害者にして保守系団体などを犯人扱いにするサヨクの動機が含まれていた場合も、検挙して首謀者を明らかにすべきですけど。

しかし、植村記者の「捏造記事は書いていない」という主張に対しては疑念があります。
この問題の発端は間違いなく「吉田清治」という人の書いた済州島での「慰安婦狩り」というフィクションにあります。これは1980年代に複数回朝日新聞に掲載されました。

しかし、この慰安婦狩りは、どこを調べても証拠が出てきませんでした。済州島にいた住民などからの聞き取り調査でも、「そんな大勢の若い女性をさらったなら、誰かが目撃していて、俺たちだって反抗したよ」という答えが返って来ただけでした。(韓国による1989年の調査)

植村記者が従軍慰安婦の記事を書き出したのは1990年からであり、この頃は吉田清治氏の「慰安婦狩り」は嘘だろうという話は出始めておりました。
吉田氏の証言の客観的な裏付けは取れず、むしろ上記のような反証が得られるなどのことが多すぎたからです。

そして1995年になって、吉田清治氏はそれが嘘であること(創作である)を認めたのです。つまり彼は、戦争というものの残虐性とか婦女子に対する暴行などが自暴自棄になった兵隊からなされることを言いたかったようです。
それ以降吉田清治氏は表に出なくなり、2000年7月に死亡しております。

このような背景の中で、植村記者は1991年5月22日に「木剣ふるい無理やり動員」という吉田発言を紹介し、同年10月10日朝日新聞大阪版では「慰安婦には人妻が多く、しがみつく子供をひきはがして連行」したという吉田の証言を記事にしたのです。
そして1991年の8月には、「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」(植村隆韓国特派員・ソウル発)記事で元慰安婦の金学順について「女子挺身隊の名で戦場に連行された」と言う記事を書いたのです。

この頃は韓国もこの問題を調査し、韓国ハンギョレ新聞は金学順が「(狩られたのではなく)親に売り飛ばされた」と報道し、また金学順の裁判での供述との矛盾などもあると報道していました。そして西岡力氏は、朝日新聞による一連の報道は誤報であると述べていました。1991年の8月のことです。

ところが、1991年10月に朝日新聞大阪版が吉田清治氏へのインタビューを掲載し、さらに11月には北海道新聞に対して吉田清治氏は「アフリカの黒人奴隷狩りと同様の狩り立てをした」との発言を行い掲載されました。(これは植村氏の記事ではありませんが)

1991年10月から1992年2月までの約半年間、韓国のMBC放送が20億ウォンの予算を使ってドラマ『黎明の瞳』を放映します。
ヒロインが従軍慰安婦として日本軍に連行され、日本軍兵士が慰安所を利用したというフィクションですが、これが60%に近い高視聴率になってしまいました。

そして吉田清治氏は韓国やアメリカでも嘘の講演を行ない、海外メディアにも報道されてしまいました。

1992年1月、朝日新聞が一面で「慰安所、軍関与示す資料」「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」「政府見解揺らぐ」などと、何故か立て続けに報じ、その直後に訪韓した宮澤喜一首相は「軍の関与を認め、おわびしたい」と述べてしまいます。

1992年3月、秦郁彦氏が吉田の証言について済州島で現地調査を行ったのですが、裏付けが取れなかったどころか当時を知る城山浦の住民から「この島で人間狩りが起こったら大騒ぎになって誰でも知っているはずだが、そんな話は聞いたことすらない」「男子の徴用はあったが慰安婦狩りはなかった」との証言を得たのです。しかしすでに韓国に対する賠償問題などに発展してしまって、そこから従軍慰安婦問題として、日韓の亀裂が本格的に始まったようですね。

この発端となった植村氏の1991年の朝日新聞の記事に対して、植村氏には責任はないでしょうか?
1989年の韓国での調査では吉田証言は疑われております。このようなことは新聞記者なら調査し確認すべきことであり、植村氏の言うように「歴史をきちんと見つめ、記録していこうという姿勢で取材をしていた」とは思えません。

また、「慰安婦と女子挺身隊を混同した事実誤認」とか「私は『連行』と書いたが『強制連行』とは書いていない」などという言い訳には不快感を感じます。
さらに「当時の記者は(皆)そういう概念だった」とか「なぜ、私だけが捏造者と言われなければならないのか」などの発言は「犯罪者の言い訳」のようにしか聞こえません。

多くの保守系論壇から責め立てられている植村記者ですが、それはこれまで一度もインタビューや討論会に出てこなくて、保守陣営が苛立ってやってしまったことだと思います。
しかしそのおかげで、「訴訟」という行動によってやっと植村記者は我々の前に姿を現したのです。

ぜひ被害者面することなく、堂々と従軍慰安婦の問題として自分の書いた記事とその背景について述べたいことを述べて欲しいですね。
まったく騙されていて真実だと思っていたのか、なぜ調査し両論あることを示さなかったのか、あるいは、ある方面からの「圧力」があって調査したり両論併記が出来なかったのか、などについてですけど・・・

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