2016年7月7日木曜日

日本とキリスト教

日本におけるキリスト教信者数は、カトリック、プロテスタント合わせて人口の1%未満、100万人弱だそうです。そしてこの数字は、キリスト教的文化がこれだけ入り込んでいる社会では珍しいそうですね。

なぜ日本にキリスト教が根付かないのか、その根拠はなかなか判らないようです。
キリスト教作家の故)遠藤周作氏は、小説「沈黙」の中で、「日本という泥沼」という言葉を使ってキリスト教が根付かない日本を揶揄しています。

戦国時代末期に日本に入ってきたキリスト教はカトリックで、大名などに浸透していったようですが、織田信長は「政治に口出す宗教」としてキリスト教を禁教としてしまいます。しかしこれがキリスト教が日本に根付かない理由ではないでしょう。

戦後、食料も無くなり貧困化した日本に、アメリカ・プロテスタントが乗り込んできます。ただしこの時のキリスト教はマルキストの仮面にもなっていたようです。
しかし共産主義がモスクワを拠点にしていることと、反宗教であることが判ってきて、アメリカは共産主義と対決する姿勢となり、キリスト教布教も反共産主義的になっていたわけです。
しかしそれでもキリスト教は日本には根付きませんでした。GHQの影響でキャバレーやらクラブやらでクリスマス・パーティが盛んに行われても、キリスト教信者はほとんど増えませんでした。
日本国民が生活苦にあえいでいた戦争直後、GHQが食糧援助を幾ら行ってもキリスト教信者数は増えません。その代わりに共産党と創価学会が信者数を増やしています。

エルビス・プレスリーの人気が出ても、ビートルズの人気が出ても、キリスト教は全く別物として信者数は頭打ちになります。
キリスト教がどんなに努力しても、日本では信者数が100万人を超えたことは無いそうですね。

ユダヤ教とキリスト教の違う点は、「公共」という意味を持っているかどうかです。公共とは「公に殉じる」と言う意味で、これが無ければ国家建設は不可能です。
権力と言うものでは本当の意味での国家は作れません。強い権力に従うことはあります。故にそれを国家だと見ると、そうでもないわけです。王の権力は死と世代交代で衰弱し、結局は失われてしまうからです。そこで「公共の概念」をいかに国民に定着させるかが問題となります。

欧米キリスト教国は、ローマ帝国から継承したキリスト教によって、「公共の概念」を受け継ぎました。しかしユダヤ教にはそれがありません。ですからイスラエル再建を夢見ながら、それがなかなか達成できませんでしたね。

日本に公共の概念が入ってきたのは、おそらく飛鳥時代でしょう。よく解らないのですが、日本にはヘブライ系の人物が入ってきていたようです。蘇我氏と物部氏の対立が続いた時代、厩戸の皇子が作った「十七条憲法」には、公共の概念が入っていると思います。
蘇我氏は渡来系の氏族と深い関係にあったと見られているようですから、ヘブライの情報がもたらされていたとも考えられるのではないでしょうか。
天皇を別格に置いて、政治は公家が行うようにしたのですから、公家、即ち「公」の概念が持ち込まれております。

それより前、神武天皇から始まる日本の歴史ですが、なぜ国家を建設出来たのか、天皇の概念は何だったのか、今から2676年前に、この列島に何が起きたのか・・・
もしかしたら古代エジプトの国家形成概念を神武天皇は持っていたのかも知れませんね。古代エジプトは二千六百数十年前に完全に滅亡しています。(クレオパトラを持ってしても再建は出来ませんでした)

その2676年前から現在に至るまでの日本の歴史年表を見れば、ほぼ真ん中に聖徳太子が居ることが判ります。
もしかしたら、「厩戸の皇子」とは厩で生まれたと言うイエス・キリストを想定した言葉だったとすると、この時点でキリスト教が日本にもたらされていたのかも知れません。

古代エジプトのファラオ的国家形成概念と、キリスト教的「公共」概念を併せ持って発展してきた日本国を考えれば、いまさらプロテスタント的なキリスト教の概念などを言われても、すでに様々な日本的文化の中に溶け込んでいますから、敵対もせず当然のことと受け止めてしまいます。そうしますと、このような教えから日本語文化は感動を覚えないわけです。

キリストの受難の話などは、日本の歴史の中には同様の受難が多くあって語り継がれていますから、その中の一つとしては受け入れられても、それ以上の感動を呼ぶものではありません。
これでは宗教の布教にはなりませんね。

「罪人を許す」という考え方もすでに日本にありましたから、一神教の神様の専売ではないわけで、それにすがる様なメンタリティは日本語文化の中にはありません。

明治以降、欧米から技術的なものを学ぶ必要からキリスト教徒になった武士階級の偉人たちは居りますし、海外から布教のために日本に学校を作った人達も居ります。
しかし日本語文化に対してキリスト教は「信者になるほどの感動」を与えることが出来なかったのではないでしょうか。

同じことが共産主義活動についても言えるでしょう。
ファラオ的な統治概念で形成される天皇制度と、キリスト教的な公共の概念で支えられる「日本の心」は、それだけで我が国を守っているような、そんな気がいたします。

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