2011年11月6日日曜日

西岡参議院議長の死、どうなる民主党

昨年の7月、サヨク思想の強い江田五月氏に代わって参議院議長に就任し、これまたサヨクと売国の菅首相を常に身近に監視していた、民主党の良識「西岡武夫氏」が、11月5日深夜に亡くなられました。享年75歳。まだまだ日本のために働いて欲しい議員でした。
ご冥福をお祈りいたします。

昨年の9月、尖閣諸島周辺海域で発生した中共漁船衝突事件で、身柄を拘束された船長を、中共政府の圧力を受けて簡単に「釈放」してしまった菅直人首相。
しかもそのやり方も、責任転嫁の積み重ねでした。
その首相に対して「あんたはそれでも日本の首相か!」とまで言って怒ったとされる西岡参議院議長。

そしてその後、2011年3月の東日本大震災では、菅直人首相の「国家の一大事を政局だけの利用しか考えない」態度に怒り心頭。再三に渡って「首相を止めろ!」と言い続けた正義の参議院議長でした。
菅氏がやっと首相を辞めた時、自らが「次期首相になる」とまで言っていたパワーのある政治家でした。健康が優れず、さすがに首相になることは出来ませんでしたが、日本の現状を心底心配してのご逝去、さぞかし心残りだったでしょう。

西岡氏はロッキード事件の時に自民党を離脱、1976年に新自由クラブを旗揚げし、幹事長に就任します。しかし、あくまでも「保守政治の刷新」を掲げる西岡氏に対して、同党の河野氏や田川氏と折り合いがつかず、1979年に離党、その翌年に自民党に戻ります。
しかし、有権者はこの復党を認めず、1983年の選挙で落選してしまいます。

その後、1986年の選挙で返り咲き、宮澤派に所属。自民党税制調査会長、自民党総務会長を勤めますが、宮沢派が総務会長に加藤紘一氏を推薦、あくまでも保守的改革を貫こうとする西岡氏は加藤氏との交代を拒絶します。
その結果、宮沢派を除名処分となり、その後何とか保守改革を試みる政治活動を行いますが、どうしても自民党内の革新勢力に阻まれ、1993年に再び自民党を離党してしまいます。

1994年に新進党を結党し、小沢一郎氏を補佐しますが1997年に新進党は解党。その後自由党に参加したものの、2000年の選挙では落選。
そして2001年の参議院選挙で自由党から立候補して当選、政界に戻ります。
2003年に自由党は民主党と合流することになり、保守の立場から難色をしめしたものの、民主党入りして、渡部恒三氏とともに、民主党保守の重鎮として活躍してきました。

2006年には皇位継承問題で、皇室典範改正問題が浮上、慎重な立場を明らかにして安易な女系論には反対を表明、永住外国人の地方参政権付与に対しても反対の立場を取ってきました。

民主党にありながら、最期まで保守政治を貫いた日本の政治家、それゆえの波乱にとんだ政治家人生だったようです。
この西岡氏を失った民主党。これでサヨクの力はますます強くなって行く事が懸念されます。
心配ですね・・・

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