2017年2月27日月曜日

天皇陛下のベトナムご訪問

2月28日から6日間、天皇・皇后両陛下はベトナムとタイをご訪問なされます。タイは昨年亡くなられたプミポン・アドゥンラヤデート国王のご弔問でしょうが、ベトナムでは先の大戦後も現地に残った「残留元日本兵」の家族との面会をなされるそうです。

産経に、残留元日本兵の息子である仙台市青葉区の写真家、猪狩正男氏(60歳)のインタビュー記事が出ておりました。

猪狩正男氏の父、和正氏は陸軍少尉、中尉として従軍し、フィリピンやインドネシアを転戦。ベトナムで終戦を迎えたそうです。
軍人としての誇りは、敗戦という現実に耐えられなかったのか、義憤を感じていたのかも知れませんね。多くの戦友の死を見てきた軍人の誇りが、日本に戻る敗残兵士になることを拒否したようです。

そこにベトナム独立同盟(ベトミン)から声が掛かり、再統治を狙うフランスとの戦いを決意、第1次インドシナ戦争(ディエンビエンフーの戦い)に参戦、フランス軍を打ち負かします。
この戦いで、和正氏はベトミンの士官学校の教官として8期生まで兵士を育てたということです。
猪狩和正氏だけでなく、石井卓雄氏、谷本喜久男氏、加茂徳治氏なども教官としてベトミン兵を育てたと言うことです。

銃の扱いとともに、「源平の戦い」「川中島の戦い」など日本の合戦を例示しながら戦いの手法を教えたとのことですから、日本軍がアメリカとの戦いで本土決戦になった時、地下壕を掘ってゲリラ戦を戦うと言う戦法も教えたのでしょう。

日本兵約600人がホー・チ・ミン氏らが率いるベトナム独立同盟に参加したと言いますから、彼らが地下壕を掘って戦い方を教育したことは間違い無いと思います。1キロほどの日本兵が掘ったトンネルが、今も残されているそうですから。

和正氏は現地で結婚し、そして正男氏が生まれます。
1954年、フランスはジュネーブ協定を締結、その後元日本兵は順次、日本に帰国したそうですが、家族同伴は駄目だと言うことで和正氏はベトナムに残り、帰国する同僚に故郷の父への詩を託したそうです。
・・『今さらに何をか言わん遅桜 故郷の風に散るぞうれしき』・・

当時はベトミンの戦いに元日本兵が参加していたことは極秘にされ、手紙は全て検閲されると言うことからこのような詩を書いたと言うことです。

それから5年後、家族同伴の帰国が許され、和正氏は正男氏ら家族と日本へ帰国したと言うことです。
そしてケネディ政権がベトナムに深入りを始め、ベトナムには戦争の災禍が続きます。ベトナム戦争では、地下に掘った要塞の効果でアメリカ軍を苦しめ、20年間の戦いの末に、1975年、遂にアメリカ軍を撤退させたのです。

ベトナム戦争をテレビで見ていた正和氏は、よくベトナムの戦車を見ると「あの中に俺の教え子が乗っている」と言っていたそうです。

猪狩和正氏は歯科医免許を持っていたため、現地の竹で作った入れ歯を考案したりしてベトナムでも働き、帰国後も歯科医として働いていたそうです。
1981年に亡くなられましたが、そのご子息の正男氏は「『義』に生きた父を誇りに思う」と述べておられます。

猪狩正男氏の持っておられた出征前の猪狩和正氏の写真には、日本刀を持った若き日本陸軍の兵士としての凛々しさが感じられ、当時の日本兵は武士としての「義」の心を持っていたことが伺えます。

「義」によって大東亜戦争を戦い、多くの戦友を失い、それでも日本の敗戦を許すことが出来ず、ベトナムの地において大東亜戦争の目的、即ちアジアの欧米植民地からの解放を実現させた日本兵なのです。
戦後すぐに日本はアメリカに寝返ったからでしょうか、ベトナムの人々は日系二世に冷たい視線を送り、それを跳ね返すためにベトナム戦争での危険な激戦区に志願して赴き、多くの日系二世の方々が戦死したと言います。

現在ベトナムの人々が日本に友好の顔を向けるのも、彼等の「義」に殉ずる血の働きがあったからではないでしょうか。

ベトナム戦争で多くの友人を失った日系二世たち。彼らはどのような気持ちで天皇陛下をお迎えするのでしょうか。また、核兵器の被害を前に戦争終結を実行なされた昭和天皇のお気持ちと、今上陛下の思い、そしてアメリカの庇護のもとに我がままに生きている現在の日本国民の思い。これらにどのような祖語があるでしょうか。

今回の今上陛下のベトナムご訪問が、このような祖語を解消するよう働きますように。そして日本から失われつつある「義」の観念を取り戻す一助になりますように・・・祈念いたします。

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