2019年2月9日土曜日

教育委員会の邪悪

千葉県野田市の小4女児死亡事件や、茨城・古河の8歳女児暴行など、親の子供に対する暴行と致死事件が頻発しています。

小4女児死亡事件では、子供は「お父さんにぼう力を受けています。夜中に起こされたり、起きているときにけられたり、たたかれたりしています。先生、どうにかできませんか。」と家庭内暴力の実態を野田市の小学校のアンケートで訴えました。
どうやら、このアンケートは子供たちの家庭で暴力が行われていないかどうかのアンケート調査だったようです。

当然、この子供たちの書いた内容は親には秘密になります。しかしこの野田市の教育委員会は父親に激しく要求されたという理由のみでこのアンケートのコピーを父親に渡してしまったと言うのです。

これでは何のためのアンケートなのか判りませんね。何のための教育委員会なのでしょうか。日教組の天下りのための機関なのでしょうか。
それにしても、えらい剣幕で怒鳴っている父親を見れば、その子供の家庭で暴力が振るわれていることくらい察しがつくでしょうにね。
事なかれ主義を貫いて子供を犠牲にしたようなものです。そしてこれは明らかに個人情報漏えいという犯罪で、それゆえに殺人が行われたという事件になるはずです。

アメリカでは、燐家から子供の悲鳴が聞こえたら警察にすぐ連絡しないと罪に問われるそうです。法律がそうなっているからです。
我が国が「事なかれ主義」になったのは、やはり敗戦後の武装解除がまだ続いていることが原因ではないでしょうか。

暴力が悪い事の様に、一律に規制した結果が「事なかれ主義」を生んだ原因だと思います。暴力とは戦いであり、勝つことが正義であり、「正義は負けない」という意識が日本文化にはあります。これが柔道や剣道など、武士道の本質です。

そして常に「正義とは何か」が議論され、忠義から無私的行為、命を賭しても守らねばならぬことがあるとの認識をもっていたはずです。
正義の議論から、机上で論じているだけでは意味がないということで、実践的正義を追及し、それを道義と位置付けるなど、日本文化は戦い方の追及をしてきました。

弱い者を助け、強くても邪悪な者には敢然と立ち向かうことが正義と位置付けられ、それが出来るようになるためには常日頃の鍛錬が欠かせないと言うのが、我が国の武家の基本的教えだったはずです。
これは戦後サヨクの、「国家権力という邪悪と戦う」という暴力革命の学生達のカッコよさにもなっていたはずです。任侠の世界観にもこのような意識があり、正義は「やくざ社会」にもあったのです。ですからヤクザ映画もカッコよかったわけですね。

このような正義感を冷笑するようになって、さらにあの憲法の解釈が「暴力の否定」と無理やりなされ、一律に「暴力は悪」となってしまってからこのような意識が薄れ、「事なかれ主義」に変質していったように思います。
そしてそこから学校のいじめ問題が深刻化して、やがて家庭内暴力の悲劇が始まったと思います。暴力でなければ対処できない暴力を治めてこそ、これらの問題の解決方法が見えて来るのに、それが出来ない以上、我が国は今後さらにもっとドメスティック・バイオレンスは激しくなるように思うのです。

ある意味で、暴力の正しい使い方が「正義」であり、正義は勝たなければなりませんから、常日頃の鍛錬が必要になるわけです。
「道」と付く日本文化は、剣道や空手道だけではなく、華道や茶道も常日頃の鍛錬を目的としたものです。争いを治めるために、勝たなければならないという、その勝ち方の追及だからです。(スポーツとは違うものなのです)

華道のもとは葬式の装飾です。正義でも負ける(=死ぬ)ことがあり、その時は葬式に飾る生け花で、「あなたは正しかった」ことを表明するわけです。茶道は、狭い空間に閉じ込めて、いやでも「話し合い」しかない状況に追い込むという戦いです。

まあ解釈は色々ですが、日本文化はこのようにして暴力でなければ治まらない事態に常に備えていたわけです。

戦後もしばらくはこの正義が生きていました。映画やテレビでも正義の味方が活躍していましたね。しかし日教組の「暴力は悪」という教育が徹底し出してから正義の味方は姿を消し、そして「事なかれ主義」という邪悪が蔓延ってしまったようです。

今回の野田市の教育委員会の取った行動は、子供とか家庭内暴力の問題よりも、もっと邪悪な「約束破りであり裏切り行為」なのです。命を懸けても守らねばならぬことを、恐怖感から「事なかれ主義」に逃げてしまったと言う、日本文化の中では最も蔑まれる行為です。

野田市の教育委員会の誰なのかは判りませんが、自分達の行為によって失われた命に対してどのような釈明をするのでしょうか。
これは「すみませんでした」では決して済まない行為なのですが・・・

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