2015年11月25日水曜日

11月25日、三島由紀夫・割腹の日

もうあれから45年の歳月が過ぎていました。今も鮮烈な記憶が残っております。市ヶ谷の自衛隊駐屯地に乗り込んだ三島由紀夫氏と森田必勝氏が、あのバルコニーで演説した後、割腹し自決した事件で、私は2日くらい眠れないほどの衝撃を受けました。
何だか、自分も割腹自決しなければいけないような、そんな妄想に駆られたものです。

当時、マスコミによって盛んに三島由紀夫氏に関する記事が書かれましたが、どれも嘘っぽくて「いったい何故・・」という思いがどうしても払拭できませんでした。

あれから45年。私の方は老醜を晒しておりますが、三島氏はあのバルコニーで、45歳のまま今も私たちに「憲法改正への決起」を叫び続けているように感じております。

GHQによって作られた国際法違反の日本国憲法。本来であれば1951年のサンフランシスコ講和条約が締結された時点で破棄されるべき憲法でした。(国際法上は破棄されたとみなされるでしょう)
しかし、巧みに政府要職などに入り込んだサヨクが憲法破棄を阻止、平和憲法などと銘打って維持してしまったのです。アメリカの意向もあったようですけど。
このときはまだアメリカが超大国であり、日本の再武装はアメリカの戦争の楯になる可能性もあり、警察予備隊という公務員組織でごまかしました。やがてこの警察予備隊は自衛隊として拡張されていきますが、公務員という位置づけだけは変わりませんでした。つまり、ポジティブリストのまま兵器と訓練だけが近代化したわけです。

それから15年が経ち、三島由紀夫氏は「このままでは日本が消滅する」ことを心配し始めます。1966年、ひ弱な文学青年からボディビルで身体を鍛えなおした三島氏は、防衛庁関係者や元陸将・藤原岩市などと接触し、自衛隊体験入隊許可のための仲介や口利きを求めます。
そして1967年、単身で45日間自衛隊体験入隊をやり抜き、その後「早稲田大学」の日本学生同盟(日学同)などと民兵組織「祖国防衛隊」の構想を練り始めます。

この年、銀座の喫茶店「ビクトリア」で三島由紀夫と早稲田大学国防部代表らの面談が行われ、三島氏は森田必勝氏(早大教育学部在学、日学同)と初めて会います。
1968年、「論争ジャーナル」グループと早大生を中心にした20数名の学生らと三島由紀夫による、陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地での体験入隊が行なわれ、「祖国防衛隊」一期生がスタートします。

しかし、このような三島氏の活動に対し、世間の風当たりは決して良くありませんでした。日経連に居た桜田武氏は、祖国防衛隊に半端な寄付(300万円)をしながらも、「君、私兵など作ってはいかんよ」などと「祖国防衛隊」を否定します。

馬鹿にされたと感じた三島氏はこれを契機に、1968年10月、「祖国防衛隊」の名称を変え「楯の会」とし、少数先鋭の部隊にすることを決意します。
虎ノ門の国立教育会館にて、「楯の会」の正式結成を記者発表した三島氏は、会員を面接で選び、無給で服務することとして、夏・冬、各一着の制服、制帽、戦闘服、軍靴、特殊警棒を支給することを決めます。
そして1969年12月から、三島氏は憲法改正の緊急性を説き、毎週水曜日に行う「憲法改正草案研究会」で日本国憲法の問題点、「新憲法における『日本』の欠落」「戦争の放棄」「非常事態法について」を訴え、34回にわたり憲法改正案を起草し続けます。

1970年7月、産経新聞に三島由紀夫氏の記事が出ます。
「果たし得ていない約束-私の中の二十五年」と題されたこの記事は、あの戦争で散華された三島氏の友人などとの約束がいまだ果たされていないことを意味したものでしょう。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」と綴られた文章には、日本が日本でなくなっていくことへの焦燥感が表現されておりました。
このとき日本は、大阪で開催された万国博覧会に沸いていて、経済大国への道をひたすら歩んでおりました。

「もし日本人の日本人らしさが『豊かさ』にあるとしよう。ではそれを失ったらどうなるのか? 他国がより安い製品を作れば失われてしまう、そんな場当たり的な価値観を『日本人らしさ』の基準にしていいのか。(略)・・・
耳に心地のよい正義感、正論を吐いている学者たちは何をしているのか。しかも日本は経済的な快楽に溺れ、アメリカの言いなりになっている。正論の裏にある、時代の空虚と偽善、その閉塞感を破壊せよ。そのためには民主主義にすら、一度は『否』をつきつけよ・・・」

なんとも言い当てている三島氏の文章ですね。さらに三島氏は、「私には明確な目標がある、否、正確に言えばまだ果たしていない『約束』がある。それは戦前の若者が、なぜ死なねばならなかったのか、何のために命を投げ出したのかに答える、という約束である。だから私の人生は、つねに死を飼って生きてきた。最初は戦争で、2度目は多くの友人が死に、そして3度目は戦後を生き延びた『老い』の感覚によって。」と続きます・・・

戦後のふやけきった日本を停止し、文化の咲き誇る「日本」を取り戻すには、天皇こそ必要なのだ。・・・これが三島氏の結論だったようです。

こうして三島由紀夫は、1970年11月25日、楯の会学生長・森田必勝、同班長・小賀正義、同班長・小川正洋、同副班長・古賀浩靖(介錯役)の4名とともに市ヶ谷駐屯地に赴き、「男一匹が命を賭けて諸君に訴えているんだぞ。今、日本人がだ、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は武士だろう。武士ならばだ、自分を否定する憲法を、どうして守るんだ」と激を飛ばし、そして天皇陛下万歳を行った後、割腹・自決されました。

その時は自衛隊隊員たちは三島氏に怒号を放っていました。しかし事件が終わりしばらくして自衛隊の1千人の隊員に無差別抽出でアンケートを取ったところ、7割以上の隊員が檄文に共鳴すると答えたそうです。

それから45年、いまだに戦後の平和ボケから抜け出さず、サヨク・マスコミなどが流す「平和という甘い言葉」を信じている日本国民です。しかし憲法改正への機運は少しづつ上がってきていることは確かなようです。
憲法改正への道は、まだまだ遠いのでしょうか・・・・

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