2013年8月9日金曜日

「自虐のぬるま湯」とは・・原爆記念日に

産経に出ていた記事に、阿比留瑠比氏が「原爆問題-自虐のぬるま湯から出て日本が主張すべきこと」というコラムを書かれていました。
この「自虐のぬるま湯」という言葉が面白く感じました。

「日本国憲法」から始まる日本の戦後史は、まさに「自虐のぬるま湯」だったと思うからです。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という平和宣言は、まったく「他人に寄りかかった平和主義」を標榜していますし、それに続く「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」などというセリフも、「戦力を持たない」などという9条規定から見返すと、「何もしないで名誉だけ欲しい」と言っている様にも思えます。

このような憲法を作ったアメリカ側も、「この憲法は占領が終わったら撤廃されると思っていた」というくらいに軽いものだったようです。
太平洋戦争の責任をすべて大日本帝国軍に押し付け、正義の連合軍と悪徳非道な帝國の軍国主義の戦いで正義が勝ったことにして「手打ち」した戦後処理。
しかし、そのために正義のアメリカは、その後のアジアの紛争ではまったく無様な戦いをしています。

サンフランシスコ条約が締結され、日本へ主権が戻ったとき、吉田首相は経済優先政策を取り、アメリカが要請した再軍備を断ってしまいました。その時使われた根拠がこの「平和憲法」の9条だったようです。
おかげで日本は朝鮮戦争にもベトナム戦争にも軍事介入はしませんでした。そしてアメリカはアジアの戦争を単独で戦わなければならなくなってしまったのです。

しかしこの9条が、その後日本国内の反日サヨク(特にマスコミと教育界)の手に握られてしまったのです。経済復興がなしとげられ国力も十分となっても、これらサヨクが繰り出す「平和憲法」の呪縛が、日本国家の完全な主権回復の足を引っ張ってしまいました。

このような中で、日本国民は自由主義と利己主義を混同させ、「戦う意思」を悪と思い、平和という言葉を呪文のように唱えながら「怠惰」に落ちていったわけです。
まさに阿比留瑠比氏が言う「自虐のぬるま湯」にどっぷりと浸かった日本国民となってしまったようです。

「自虐のぬるま湯」は先ず日本文化にアメリカ色を吸収させ、それから経済優先はアメリカ経済を震撼させるまでになり、経済の土俵を変えられて没落。
中共が経済力を付けて日本へ襲い掛かる気配を持ってきて、はじめて日本国民は「自己の醜悪さ」に気がつき始めたところでしょうか。

安倍政権が出来て、日本は過去の平和主義と、中共の脅威を持って防衛強化を訴える現実主義が対立するようになってきました。
この過去の平和主義こそ「自虐のぬるま湯」に浸る日本国民のように思えます。
今、原爆の日の記念式典を見ていると、そこにまったくリアリティが失われていることに気がつきます。
子供達が読む「平和への誓い」も、単なるお題目に過ぎなくなり、アメリカ大使とか著名な映画監督などを呼んでも、その形骸化した式典が変わるわけもありません。

安倍首相が式典に参列し、「私たち日本人は、唯一の戦争被爆国民であります。その非道を後の世に、また世界に伝え続ける務めがあります」と、暗にアメリカを「非道」という言葉で批判したとしても、リアリティを失った式典には何の効果もありませんでした。

「核なき世界の出現には、核ミサイルを無力化する迎撃ミサイルの完全なる完成が欠かせない。我が国はそのために今後も研究と実証実験を繰り返す!」などと演説すれば、ここでやっとこの式典にリアリティが加わるのです。
そして「日本が主張するべきこと」とは、このようなリアリティのある意思の表明のことでしょう。
「そんなのは技術的に無理」などと言う日本国民が居れば、その人こそ「自虐のぬるま湯」が良いと言っていることになるのでしょうね。
ここで重要なのは「核を無力化する技術的アプローチをするという日本国家の意思表明」という点なのですよ。

今回は、式典の日に横浜で「日本最大のヘリ空母『いずも』」が進水式を行いました。日本全体としては国家の意思を少しだけ表明したことになります。
例え風邪をひいてでも、「自虐のぬるま湯」から脱しようと言う日本。そんなリアルな姿が垣間見られた今年の原爆式典だったようです。

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