2013年7月16日火曜日

どこへいく・・日本の大学教育

産経の記事に、作曲家で東大大学院作曲指揮研究室准教授の伊東乾(けん)氏が、「新入生に実施した授業アンケートの1枚を見て驚いた」・・と言うことが書かれていました。
「教員がきれいに板書(ばんしょ)して解答パターンを教えるから試験問題が解けるのに、パワーポイントを使って板書もしない。これは手抜き以外の何物でもない。早口なのでノートも取れない。見たこともない問題も宿題に出す。こんなだめ教員に当たって大変不幸だ」と書かれてあったことに驚いたというわけです。

すなわち、今の東大生は「類似問題のパターンを練習するという受験風土に過剰に適応したため、自分で一から頭を使って考えることができなくなっている」と言うことです。
「この20年、日本の大学教育はすさまじい勢いで地盤沈下した。国全体で早急に何とかしないといけない」ということですが、ではどうするのでしょうか?

浜田純一東大総長は、「東大という組織の弱さを率直に申し上げたい」とか、「国際化が遅れている」「学生が均質で多様性が弱い」などと入学式で語り、「タフでグローバルな学生」を育成することを目指し、改革していく所存だとか。
具体的には、教養教育を重視し、課題解決や対話を重視することで、生涯にわたって自律的に学び続ける姿勢を育成する方針だそうです。

「知識貯蔵型の高校までの学びと異なり、大学では自ら考え、問題解決していく学びにチェンジさせることが必要」と語るのは丸野俊一副学長。

「タフでグローバルな学生」とは、「グローバル人材の本当の意味は、商品開発などで中国や韓国、インドなどに打ち勝つ人。日本は技術力では負けていない。負けているのは、指示された期限内に必ずやり遂げるタフな機動力だ」なのだそうです。
これは小泉政権時代の「動け!日本」プロジェクトで、伊東氏が定義したものだそうですけど。

そして、大学教育に詳しい筑波大の金子元久教授は「大学改革は大学だけでできるものではなく、国が必要性をしっかり発信し、社会全体で長期的に取り組んでいく必要がある」などと述べています。
いかにも国立大学教授の言葉のようで、しっかりと国と国民の責任にすりかえているようですね。

東京大学とは、明治時代から官僚の養成機関です。設立当初は医学主体だったようですが、国難に明け暮れた日々のこと、武家から変わった官僚に近代国家を担う官僚を育てようと編成替えをした大学です。
それはうまく働き、日本は明治・大正・昭和とアジアの近代国家として台頭してきました。

大東亜戦争が終わって、敗戦の中から立ち上がってきた日本。その舵取りをしたのも優れた官僚達で、日本は世界第二位の経済大国までのし上がってきました。(官民一体の凄まじいパワーで、やがてアメリカが「官民一体はアンフェアーだ」などと言い出しました)
しかし、敗戦直後にアメリカが仕掛けた罠、それまでの東大教授陣を公職追放して、共産主義者を要職に就けたのです。
その後、共産主義の危険性がアメリカにも認知され、逆転現象が見られましたが、教育界は変わることが出来なかったようです。

一部共産主義者の教授達に教えられた東大学生が、他の大学生とも連携して、学生運動が活発化したのはご存知の通り。
その弊害として、日教組が組織され、大学の左傾化はやがて小中学校にも及んでいきました。
戦前を知る気骨ある教師が、高齢化で職場を去っていくと、それにつれて学校が荒れ、サヨクの意向に添った教育改革は教育の悪化を誘い、それで教育された子供たちが、やがて教員となってますます日本の教育を悪化させると言う悪循環。
この中から、「国家を歌わない」「国旗を掲揚しない」という国民が生まれ、「いじめ」や「恐喝」が耐えない学校が出来上がってきたのでしょう。

受験戦争は受験産業を生み出し、「受験職人」と化した予備校の先生などがやり出したのが「解答パターンを教える」という手法だったようです。
こんな教育が国家を脆弱にしていくことは眼に見えていますが、いまだに続く東大偏重は、この「受験職人」を蔓延させ、子供や学生に対して「みずから考え、解決方法を見出していく」教育はまったくなされなくなっています。

いまさら東大の教授が「日本の大学教育はすさまじい勢いで地盤沈下した。国全体で早急に何とかしないといけない」などと叫んでも、その元を作ったのが敗戦直後の東京大学だったことを思い出さなければ改革は出来ないでしょう。

少数の人達が、「教育改革は『教育勅語』の復活から」と叫び始めました。あの負けた戦争を思い出すからか、無視され続けてきた「教育勅語」。
しかし、欧米の道徳がキリスト教をベースにしていることに比べて、教育勅語は出来るだけ宗教色を取り払い、思想的中立を極力意識して作られた、人間教育の基本が述べられた勅語です。
「天皇陛下の言葉としてまとめてあるから神道だ」と思われるかも知れませんが、英語に訳されれば神の言葉ともなり、イスラム圏ならアラー神の言葉にもなり得ます。
つまり、人類普遍の道徳教育の基礎とも言えるのですね。

このような基礎が出来ていなくて、どうして「タフでグローバルな学生」を育成することなど出来ましょうか。
東大の改革が教育の基礎を昔に戻し、日本の教育を取り戻していくことを切に願います。

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