2013年4月6日土曜日

ある英雄の死


昨日、私の知人の老人が亡くなりました。91歳でした。
彼は大東亜戦争の時、ニューギニアで闘った兵士の生き残りの一人、名前は「濱屋久一」氏です。

大東亜戦争の真相はなかなか判りません。戦後のアメリカ軍がもみ消したこと、サヨク日本国民が「日本軍国主義が悪かった」などとして、あの戦争の本質を避けて語らせなかったことが原因のような気がします。私と濱屋氏の出会いは、このような中で彼が「あの戦争の本当の意味」を語ってくれたことからでした。

それから彼が良く行く箱根の温泉に同行しては、あの大東亜戦争の話を聞きました。彼は「大東亜戦争肯定論」を熱く語っておられました。

昭和16年に徴兵され、まずは中国戦線に送られたそうです。行軍に次ぐ行軍で疲れ果て、川の中で倒れてしまい流されて、そこを上官に助けられて病院送りとなり、その上官が軍医にしかられたそうです。「兵士というものは体調が悪くてもそれを口に出さず、黙々と命令に順ずるものだ。それを良く見て病気ならそれを察知するのが上官の勤めだろう」と軍医が叱っていたことを、なつかしそうに語っておられました。

小型砲手だった彼は、中国軍との戦いで果敢な行動に出て、それが認められて出世したとか。「中国軍と言ってもどこの軍隊だかわからない。蒋介石の国軍ではなかったろう。」と語り、「戦争していても昼休みがあるんだ。その時間は彼らは弁当などを食べている」と言って笑っていました。

ニューギニア戦線では、戦って死んだ者よりも病(マラリア)で死んだ兵士の数の方が多かったと言われておりますが、連日のオーストラリア軍の空爆などの話などを聞くと、そうでもなかったように思います。
「マラリアにかかると、最初は下痢が続き体力が落ちていくんだ。そして糞と小便が同時に出るとおしまいさ。かわいそうだったなぁ」などと涙を流して話しておられました。

防空壕に入って、震える口で念仏を唱えている兵士の話を聞くとき、それを見つめていた彼のクールな眼を想像しながら、腹の据わっている兵士も居たんだ・・などと感心したりいたしました。

隣の壕に爆弾が直撃してものすごい大きな音がしたこと。そして翌日壕から出て見て、隣の壕が大きな爆発の穴になっていたこと、日が昇る海岸線を見るとキラキラと綺麗に白く輝くものがいっぱい落ちていて、それを拾って見たら人骨のかけらだったこと・・「涙も出なかった。あすは我が身だからね」などと語っておられました。

ニューギニアに送られてからは物資の補給も止まり、「芋の葉3枚が一日の食事だった」と述べておられました。空爆から逃げ回ることと、食糧確保に苦労されたとか。
不思議なことに、原住民の占い師が「この戦争は来年の8月15日に終わる」ということを語っていて、それが部隊全員の知ることとなっていたとか。
ですからその8月15日が来て、通信兵から終結の連絡が来たとき、皆占い師の言っていたことが当たったことに驚いたそうです。

16日になるとオーストラリア軍の飛行機が飛んできて、今度は爆弾でなくビラを撒いたそうです。そのビラには日本語で「日本国政府、ポツダム宣言を受託」とだけ書いてあったとか。
このポツダム宣言の話は知っていたそうですが、内容まではわからなかったとか。ただ超大型爆弾が落とされ、それが「原子爆弾」であること、先に作られてしまったことなど、「戦友の中には詳しいやつがいてね」と語っておられました。

やがて武装解除の命令が下って、刀、銃、弾薬など一箇所に集めたそうですが、その一部を山の中に埋めて、「再び戦闘になった時」に備えたと述べておられましたから、まだ闘う士気は残っていたようです。「まだあそこに埋まっているよ」と笑っていました。

オーストラリア軍の指揮官が上陸してきて、全員並んでそれを迎えたとか。通訳付きの演説が始まり・・・
「諸君らは最強の軍人である。よくここまで闘った。敬意を表する。しかし結果はこうなったのだ。やがて諸君らを迎えに船が来るだろう。それまでは軍規を乱さず、ここで待機するように。日本に戻ったら、諸君は日本の復興に精一杯力を発揮して欲しい」と延べ、武器を戻したそうです。オーストラリア軍は、それからしばらくして食料を送ってくれたとか。だから彼は「オーストラリア兵は信用できる」と良く語っておられました。

それでも食料不足は続きます。戦闘が無くなって、不要になった「手榴弾」を湾の中に投げ込み、爆発させて魚を取ったそうです。それを原住民がそばで見ていたので、取れた魚の半分を渡してやると、驚いたような顔をしてもらって帰って行ったとか。
その翌日、キャンプの前に「でんぷんの粉」が山済みされていたそうです。
「きっとお礼だったんだろうな。しかしその澱粉がいかに貴重な食料であるかは判っていたんで、それを持って返しに行ったよ。そしたら歓迎されて宴会が始まった。言葉はマレー語で、少ししゃべれたから面白かったよ。」とのこと。ニューギニアの原住民も、もらったらお礼することは常識としているようですね。

「それからだよ、何処に行っても村中で歓迎され、その村の酋長に招待されることになった。ニューギニアの原住民はほとんどが親戚関係らしい。酋長の娘と結婚して、ずっとここで暮らせと誘われたよ」など、楽しそうに語っておられました。

日本に戻られてからは、鉄工所の社長として日本の戦後の復興の一翼を担った方です。
心からご冥福をお祈りいたします。

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