2018年8月27日月曜日

ある英雄の死・ジョン・マケイン大佐

共和党の重鎮、ジョン・マケイン上院議員が亡くなられました。8月25日のことです。

ベトナム戦争真っただ中の1967年10月26日、ハノイ市の火力発電所の攻撃に参加した時、彼の艦上戦闘機スカイホークがミサイルによって撃墜され、パラシュートで脱出したものの両腕を骨折、足にも負傷を負い、チュックバック湖に落ちて、ベトナム人に引き上げられ、叩いたり蹴ったり、服を引きちぎったりライフルの台尻で肩を砕かれたり、銃剣で左足や腹部を突かれるといった暴行を受けたそうです。

その後ハノイにあるホアロー捕虜収容所(別名:ハノイ・ヒルトン)に搬送され、「どうせすぐ死ぬだろう」と言うことで放置されたり、また殴打し尋問してさまざまな情報を聞き出そうとしたようですが、彼は自分の名前、階級、認識番号、生年月日しか口に出さなかったそうです。
ベトナム側は、彼を政治的・軍事的・経済的なエリートであると思っていたとか。
だから6週間の間は病院で最低限の治療を施され、CBSのリポーターのインタビューを受けさせるなど、ベトナム戦争のベトナム側のプロパガンダに使おうとされたようです。

その後ハノイの戦争捕虜キャンプに送られた時、そこに2人のアメリカ軍の捕虜が居て、その2人に看病され、何とか生き延びることが出来たわけです。
そして1968年、彼は独房に移されます。

アメリカではマケイン氏の父親がアメリカ太平洋軍の司令長官となり、ベトナム戦域全てを指揮する立場となると、ベトナム側はマケイン氏をすぐに釈放し、ベトナムの部隊は人道的であるというプロパガンダに利用しようとします。

しかし彼は、「First in, First out」というアメリカ軍の行動規範に従ってこれを拒否します。このFirst in, First outとは、「早く捕虜にされたものが先に解放される」という原則で、彼はベトナム側に「自分より早く捕縛されているものが釈放されるなら、自分も釈放を受け入れる」と話していたそうです。

このマケイン氏の態度は、パリ協定の話し合いの場で、アメリカ側の大使・W・アヴェレル・ハリマン氏に伝えられ、アメリカ国民の知る所となったようです。

ベトナム側は、釈放を拒否するマケイン氏に対して、さらに拷問を行います。(拷問が甘かったから解放を拒否したのだと思ったのでしょうか?)
痛みを伴う姿勢で縛られたり、2時間ごとに殴打されるなどの拷問が繰り返され、さらに赤痢にも感染してしまったマケイン氏、あまりの辛さ故に自殺を図りますが、看守に止められます。

拷問は4日間続き、そして「自分は "black criminal" で "air pirate" である」と書かれた告白書に署名させられます。"black criminalとは「極悪人(黒人に対する差別用語)」という意味だと思います。またair pirateとは「空賊」、つまり馬賊のように飛行機で略奪行為を繰り返す悪者という意味でしょう。

この時、マケイン氏はその文面に共産主義の専門用語を使ったり、英文法を無視した書き方を行い、強制されて書かされたことがアメリカ側に判るように書いたと言います。
ベトナム側は別の文書にも署名させようとしましたがマケイン氏はそれを拒否します。結果は更なる拷問でした。
また、彼の所属する戦隊のメンバーの名前を書けと言われた時も、あるアメリカンフットボールチームのメンバーの名前を列挙したりしてベトナム側を翻弄し、また拷問・・・

この殴る蹴るの拷問が、1969年の10月ごろから突然なくなります。その理由は、すべてのアメリカ兵捕虜がマケイン氏のように耐えられることはなかったと言う事実です。
ベトナム側のプロパガンダを引き受けて釈放され、西側のマスコミに「アメリカが悪い」と述べ、ベトナム反戦活動家によって繰り返されるデモや、マスコミのアメリカ政府批判などが活発になって来たわけです。ですからベトナムは拷問を止めたわけです。

こうしてアメリカのジャーナリズムを味方につけたベトナムは、マケイン氏を反戦団体やベトナム民主共和国に同調するジャーナリスト達と面会させようとしますが、マケイン氏はこれを拒否します。
拒否出来ない面会人に対しては、「自分のしたことに後悔は無く、同じ事をする機会があれば行うだろう」と述べております。

1973年1月27日、パリ協定が結ばれ、アメリカ軍のベトナム戦争への関与は終わります。即ちアメリカ側の負けとなったのです。
マケイン氏は同年3月15日に釈放され、5年半にわたる捕虜生活が終わります。

その後も妻キャロルの交通事故、数ヶ月の高度の理学療法などの試練を経て、アメリカ国防大学に入学し、翌年の1974年に卒業し、1976年にフロリダにある練習艦隊の部隊指揮官となります。

重度の障碍者となった妻キャロルとは二軒の家の譲渡とキャロルの医療費の負担を条件に離婚し、勤務地のハワイで出会ったシンディ・ヘンスリーさんとの再婚、そしてマケイン氏は海軍を大佐の階級で退役します。

シンディの家はHensley & Co.の創業者(アンハイザー・ブッシュ社のビールの販売、世界で第3位の販売量)で大富豪。マケイン氏はその事業に従事します。

そして1982年に義父の支援でアリゾナ州選出の連邦下院議員選挙に共和党から立候補し当選、マケイン氏の政治家としての活動が始まったわけです。

政治家としてのマケイン氏は、保守・共和党にあっても一匹オオカミ的な言動が多く、同性婚・人工妊娠中絶・銃規制などにおいては基本を保守に置きながらも強い主張はなく、同性婚問題に関しては州による選択の自由を主張しておりました。
違法入国者の永住権を認める法案を、民主党リベラル派のエドワード・ケネディ上院議員と共同で提案したりして、ジム・デミント、ジェフ・セッションズ各上院議員ら共和・民主両党保守派の猛反発で廃案になっています。

しかし安全保障問題ではタカ派に属し、「自由と民主主義の価値観を世界に広める」「全ての独裁の打倒」といったブッシュ大統領の主張を支持しております。
ミャンマーの軍事政権への支援を巡っては、小規模でも経済支援を続ける、日本国政府の川口順子外務大臣(当時)を名指しで糾弾しています。
アジア政策では、日米同盟の強化、拉致問題を含む北朝鮮の人権問題への関心、日本の国連安保理常任理事国入りへの賛意、「価値観外交」「自由と繁栄の弧」への言及があり、集団的自衛権問題をはじめ安全保障協力における対日要求も強かったようです。

ともかく、長期間の捕虜となって非人道的な拷問に耐え、生還したマケイン氏は、アメリカ国民にとってベトナム戦の英雄であります。そして彼は、戦後ベトナム社会主義共和国とアメリカ合衆国の国交正常化に上院議員として寄与しました。

この英雄の死に対し、謹んで哀悼の意を表します。

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