今から35年前、1982年に公開された「ブレードランナー」の続編が公開されています。
最初のブレードランナーが公開された年、その元になった小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を書いたSF作家のフィリップ・K・ディック氏が亡くなっていますが、その後この映画の成功でディック氏は有名になります。
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」が書かれたのが1968年で、この頃からロボットに対してより人間的な人造人間として「アンドロイド」という言葉が登場したようです。
ちなみに、この年に「2001年宇宙の旅(キューブリック監督)」が公開されています。
ブレードランナーではアンドロイドという言葉から「レプリカント」と言う名称に変わって、人造人間というより遺伝子操作で合成された人間というような設定です。
退廃した人間社会で、ブレードランナーは旧式のレプリカントを殺して回ります。しかし、前作の最後で逃げた男女のレプリカントが子供を産んでいたことが判り、レプリカントの供給会社「タイレル社」はレプリカントの生産性を上げるために子供を産ませるプロジェクトを立ち上げ、逃げた生殖可能なレプリカントを探す・・というようなストーリーでした。
この手のSFは「人間とは何か」を追及する哲学的要素が含まれますので、ちょっと難解な部分があり、観る人によってさまざまな解釈が出来ます。だから面白いのでしょうけど・・・
そして欧米人の作り出すドラマにはヘブライ的な部分が含まれることが多いようです。今回の映画では「エデンの園の再建」と言ったようなセリフが出てきます。
ヘブライの教え(旧約聖書)では、「人間は神が想像し、永遠の命を与えられエデンの園に住んでいた。しかし神の言いつけに背いて知恵の実(りんご)を食べたため神の怒りを買って楽園を追放、そして死に至るものとなり、同時に産む苦しみを与えられ、そして労働の苦役を課せられた」となっています。
つまり労働は神の罰であって、神から選ばれし者は労働苦役から解放されると言う訳です。ここから奴隷労働の発想が生まれ、「奴隷」と言う概念が生まれていますが、我々日本人は労働を神の罰などとは考えませんから、この本当の意味は解らないわけですね。奴隷の意味も欧米人と同じ発想にはならないのでしょう。
労働は神の罰を受け続けている人間がやることで、神に選ばれし者は命令と搾取を行って生きていけるという発想がかなり長い事ヨーロッパの常識だったようです。
農業という生産性の低い労働の時代は、こんな発想でも特に問題は無かったようですが、産業革命が起きるとこの社会の貧富差を広げてしまい、そこからフランス革命とか共産主義革命が始まります。
レプリカントが奴隷として使い捨てられることから、一致団結して立ち上がり、人間と対峙するという設定は、この人類史のSF的な置き換えですね。
レプリカントの集団を率いる女性のレプリカントが「我々には『義』がある。『義』に殉じることは崇高なことだ」と話したり、「正義は我らにある。我々レプリカントの方がより人間的だ」と言っていますが、まさにこれは日本の武家社会の教えであり、アメリカ映画にもそれが登場してきたかと、時代が変わってきたことを感じました。
戦後アメリカは日本をキリスト教国にしてしまおうと努力した痕跡があります。教育を使って「義」を「愛」という概念に置き換えてきました。
しかしアメリカ側の方が「義」を学んだようですね。「愛」にすり替えられた日本側は「宇宙戦艦戦艦大和」で「愛の戦士たち」という副題を付けています。
本来「愛」とは性愛のことで、愛国者は英語では「パトリオット」ですから「ラブ」は関係ありません。
「パトリオット」はむしろ「義」に近い意味を持つのではないでしょうか。
そして性愛についての描き方も、ブレードランナー2049では、レイチェルというレプリカントを複製して登場させ、デッカードと引き合わせます。
レプリカント同士を交配し妊娠させ、レプリカントの生産性を高めようと言うタイレル社の目論見が、デッカードの「ひとみは緑だった」という一言で崩れ去ると言う演出で、レプリカントの方がより人間的であることを、このシーンで強調しているようです。
現実世界ではDNAが解読され、遺伝子を操作して量子の世界でのロボットを作ったりできる時代です。遺伝子医療も始まっています。
一方では先進諸国の人口が減り続け、一人っ子政策をやめた中共でも人口が増えません。
生殖医療の範囲が、妊娠や遺伝子病克服から、さらに広がって「生殖衝動」や「交尾感情の引き起こし」分野まで広がってくると、「人間とは何か」というこのような映画のテーマが、どんどん我々の実生活に入ってきているように感じます。
現在は日陰の商品たるラブドールなども、やがて生殖医療の分野に入ってくるかも知れませんね。
実際に馬や牛では、このような仕掛けの生殖が行われ、精子は商品として取引されているわけですから。
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」が書かれたのが1968年で、この頃からロボットに対してより人間的な人造人間として「アンドロイド」という言葉が登場したようです。
ちなみに、この年に「2001年宇宙の旅(キューブリック監督)」が公開されています。
ブレードランナーではアンドロイドという言葉から「レプリカント」と言う名称に変わって、人造人間というより遺伝子操作で合成された人間というような設定です。
退廃した人間社会で、ブレードランナーは旧式のレプリカントを殺して回ります。しかし、前作の最後で逃げた男女のレプリカントが子供を産んでいたことが判り、レプリカントの供給会社「タイレル社」はレプリカントの生産性を上げるために子供を産ませるプロジェクトを立ち上げ、逃げた生殖可能なレプリカントを探す・・というようなストーリーでした。
この手のSFは「人間とは何か」を追及する哲学的要素が含まれますので、ちょっと難解な部分があり、観る人によってさまざまな解釈が出来ます。だから面白いのでしょうけど・・・
そして欧米人の作り出すドラマにはヘブライ的な部分が含まれることが多いようです。今回の映画では「エデンの園の再建」と言ったようなセリフが出てきます。
ヘブライの教え(旧約聖書)では、「人間は神が想像し、永遠の命を与えられエデンの園に住んでいた。しかし神の言いつけに背いて知恵の実(りんご)を食べたため神の怒りを買って楽園を追放、そして死に至るものとなり、同時に産む苦しみを与えられ、そして労働の苦役を課せられた」となっています。
つまり労働は神の罰であって、神から選ばれし者は労働苦役から解放されると言う訳です。ここから奴隷労働の発想が生まれ、「奴隷」と言う概念が生まれていますが、我々日本人は労働を神の罰などとは考えませんから、この本当の意味は解らないわけですね。奴隷の意味も欧米人と同じ発想にはならないのでしょう。
労働は神の罰を受け続けている人間がやることで、神に選ばれし者は命令と搾取を行って生きていけるという発想がかなり長い事ヨーロッパの常識だったようです。
農業という生産性の低い労働の時代は、こんな発想でも特に問題は無かったようですが、産業革命が起きるとこの社会の貧富差を広げてしまい、そこからフランス革命とか共産主義革命が始まります。
レプリカントが奴隷として使い捨てられることから、一致団結して立ち上がり、人間と対峙するという設定は、この人類史のSF的な置き換えですね。
レプリカントの集団を率いる女性のレプリカントが「我々には『義』がある。『義』に殉じることは崇高なことだ」と話したり、「正義は我らにある。我々レプリカントの方がより人間的だ」と言っていますが、まさにこれは日本の武家社会の教えであり、アメリカ映画にもそれが登場してきたかと、時代が変わってきたことを感じました。
戦後アメリカは日本をキリスト教国にしてしまおうと努力した痕跡があります。教育を使って「義」を「愛」という概念に置き換えてきました。
しかしアメリカ側の方が「義」を学んだようですね。「愛」にすり替えられた日本側は「宇宙戦艦戦艦大和」で「愛の戦士たち」という副題を付けています。
本来「愛」とは性愛のことで、愛国者は英語では「パトリオット」ですから「ラブ」は関係ありません。
「パトリオット」はむしろ「義」に近い意味を持つのではないでしょうか。
そして性愛についての描き方も、ブレードランナー2049では、レイチェルというレプリカントを複製して登場させ、デッカードと引き合わせます。
レプリカント同士を交配し妊娠させ、レプリカントの生産性を高めようと言うタイレル社の目論見が、デッカードの「ひとみは緑だった」という一言で崩れ去ると言う演出で、レプリカントの方がより人間的であることを、このシーンで強調しているようです。
現実世界ではDNAが解読され、遺伝子を操作して量子の世界でのロボットを作ったりできる時代です。遺伝子医療も始まっています。
一方では先進諸国の人口が減り続け、一人っ子政策をやめた中共でも人口が増えません。
生殖医療の範囲が、妊娠や遺伝子病克服から、さらに広がって「生殖衝動」や「交尾感情の引き起こし」分野まで広がってくると、「人間とは何か」というこのような映画のテーマが、どんどん我々の実生活に入ってきているように感じます。
現在は日陰の商品たるラブドールなども、やがて生殖医療の分野に入ってくるかも知れませんね。
実際に馬や牛では、このような仕掛けの生殖が行われ、精子は商品として取引されているわけですから。