先日、三橋貴明氏の主宰する講演会(シンポジュウム)と忘年会に参加しました。
講演が終了して質疑応答に入った時、若い聴衆から次のような質問がなされたのです。
「スクリーンに左・右と書いて『左翼』と『右翼』と言われましたが、なぜ自民党が右で共産党が左なのでしょうか。共産党は『平和国家を守れ』とか立民は『憲法を守れ』と言い、自民党は『憲法改正』とか『改革を進める』と言っています。ならば共産党や立民党が右で自民党は左なのではないですか。どうやって右と左を理解すれば良いのでしょうか」
この質問に会場は唖然とし、そして登壇者が困ってしまったようです。
すでに死後になりかけた「右翼」と「左翼」であることは承知しており、だからこそそこに垂直に線を引いて上をグローバリズム、下を反グローバリズムとしたのが中野剛志先生でした。
どのように回答するか、面白く見ていますと、中野剛志先生が実にうまく説明したのです。
「様々な説明があると思いますが、現在は次のように考えれば良いと思います。すなわち、左側は『個人主義』です。自己の権利を強く主張し、まず自分が中心で発想を展開する。そして右側は『集団主義』です。集団は家族でも企業でも国家でもいいのですが、まず属する集団の利益を考え、それに基づいて行動する。このように見れば左と右の区別がつくのではないでしょうか」
この回答には感心しました。改革派が左で保守派が右という考えはもう古いようですね。
日本の現在のサヨクは、おそらくマッカーサーによってソビエトからの帰国共産主義者を要職に付けたところから始まったものでしょう。
また、キリスト教の押し付けがアメリカによって始まります。アメリカを核とした連合軍は、日本を共和国化しようと、民主化と銘打って「個人主義と人権」を教育に取り入れていきます。
しかしこの押し付けはソビエト共産主義の世界戦略に気が付いたアメリカによって中止されたようです。サンフランシスコ条約で日本の半独立が成立し、「立憲君主制」が存続されたからです。
こうして我が国には「個人主義と人権を主張する左翼」と、「家族と先祖崇拝の保守」が混在するようになったわけです。
中野先生は右翼と申しますが、軍隊なき日本には右翼は存在せず、単なる伝統を守る保守が残り、それを「右」と呼んでいるだけではないでしょうか。
この個人主義がキリスト教から「愛」と共に教えられます。それでも伝統を守る家族や国家への帰属意識は「義」として日本人の意識に残ったわけです。
ですから左の「愛」と右の「義」と考えれば判りやすいかも知れませんね。「義理に殉ずる」右と、「愛と人権」の左となるわけです。
そしてそれは「義理と人情」という判りやすい対立軸として残っていたわけです。
どうも「愛」はキリスト教の世界戦略のキーワードのようです。GHQとともに我が国を占領したサヨクは、キリスト教を使って「義」の上に「愛」を配置しました。そして忠臣蔵など「義」の演劇を公演させないようにしました。
占領初期は、まだ我が国のラジオなどでは「義理と人情」の浪曲が流れ、テレビの時代になってからも、しばらくは「義」のドラマがありました。
また、アメリカから送られる西部劇などにも「義」を重視するドラマはあったのです。
しかしそれがやがて消滅していきます。今のテレビには「義」がなくなり「愛」に満ちています。進駐軍の思惑どうりに・・・
このキリスト教が、人権と個人主義によって変質し始めます。行き過ぎた福祉や同性愛です。これらが組織弱体化に使われ始めたからです。
福祉とは個の独立を目指した支援です。「どうした方が得だ」というようなものではありません。そして同性同士の友愛は、社会システムとして取り入れるものではなく、社会システムとしては「子育て・教育」が必要な家族への支援システムであるべきでしょう。
そして家族には「義」による結合がなければならないのではないでしょうか。「義」よりも「愛」を優先するとDVや離婚などの崩壊を招きます。
渋谷区で同性同士をパートナーとして証明する制度が始まってから生まれた女性の同性カップルはすでに離婚しており、芸能界でもLGBTの結婚が破綻しています。
所詮無理な社会システムなんですよ。「愛」は必ず破局するわけです。
韓国と取り交わした「日韓合意」について、韓国が難癖を付けて「認めない」旨の報告書を出しました。一昨年の日韓合意はアメリカが介在し、世界に向けて約束したものです。しかし韓国にはその重さを感じることなく国内事情だけを取り上げて破棄しようとしています。
つまり国際間の約束を行うような「義」の発想が韓国には無いわけですね。
今回は世界が見守る中での合意ですから、河野外相も韓国の言い分は受け付けていません。韓国がどんな国であるか、もう世界中が判ったことだと思います。
「日韓合意」は、このような「信義なき国家」韓国を世界に知らしめるためのものだった・・と結果的になったわけです。
このような考察で今年を終わることとします。来年は国家主義が再燃する年となるでしょう。主権者たる国民がしっかりしないと、戦争の災禍を招いてしまうかも知れませんね。