日馬富士の暴行事件から始まった相撲スキャンダルは日馬富士関が書類送検され、現在白鳳関と貴乃花親方の対決になっていると、週刊誌などでは書かれております。
潔癖な貴乃花と、星取引をしていたとされる白鳳などのモンゴル力士の問題と捉えられかねない問題のようですが、基本的には相撲の持つ基本的な問題が露呈されているように思います。
この元を辿れば、戦後の角界を作った初代若乃花の哲学に戻るように思うのです。
相撲は、奉納相撲として戦中も行われておりました。真珠湾攻撃から始まった大東亜戦争の時代も。秋場所が無くなったり春場所が無くなったり、力士を戦争に取られたりしながらも、興行だけは続いていたようです。
敗戦が決まった昭和20年も、さすがに春場所は無かったようですが夏場所と秋場所は行われたようです。
でも、この頃の相撲は年間3場所で、春場所、夏場所、そして秋場所だけだったとか。相撲の日数も10日制で、10勝で全勝だったそうですね。
国家神道と結びついて、相撲は戦争中も続けられていたのでしょう。だから敗戦と同時にGHQが相撲の邪魔を始めます。両国国技館はGHQによって接収されました。それでも相撲協会は、明治神宮外苑の野天相撲や浜町の仮設国技館などで興行を続け、GHQに反発していました。
戦前に相撲協会が買っていた蔵前の土地に、海軍戦闘機組立工場の払い下げで入手した鉄骨を使って収容人員は約11,000人。2階建てで、1階は溜まり席と枡席、2階は椅子席と貴賓席を持つ蔵前国技館が開設されます。昭和29年のことでした。
力道山などと同じ二所ノ関部屋に属していた若乃花は、昭和27年に芝田山部屋から花籠部屋に名跡変更された花籠部屋の力士となります。
そして若乃花は、敗戦で生活苦にあえぎ相撲どころではない国民を、いかにして国技館に呼び込み、そして館内を満員にするかを考えていたと言います。
これまでの相撲が、星の貸し借りによってなれ合い相撲になっていることも問題でした。江戸時代ならそれでもよかったようですが、明治、大正、そして昭和の時代になっても、そのしきたりのようなものは角界の常識になっていたようです。
若乃花はそれを改革することに決めたようです。ともかく強くなって横綱になることと、勝負を客観的に誰でも納得のいくようにすることだったのではないかと思います。
GHQによって国家神道は解体され、神道が一つの宗教になってしまったこともあり、奉納相撲ではなく、興行として経済力のある相撲にしなければならないという切実な問題もあったはずです。
そこで、それまで年間3場所だった大相撲を年間6場所に変え、NHKの中継も行うようにしたのだと思います。
始まったばかりのテレビの中継が入り、勝負の判定を「分解写真」という技術を使って客観的に判るようにして行きます。
そして若乃花は稽古に励み、ライバル栃錦を得て栃若時代を作り、そして相撲の人気を高めて興行的に成功させて行ったわけです。
しかしこの時代も50年以上の年月を経過すると、やがて昔の星の貸し借りが戻ってきてしまったようです。
相撲が大変な訓練と精神力を必要とすることは、他のスポーツと同じです。一種のプロスポーツですから、顧客動員が出来れば星の貸し借りは構わないのではないか・・などという先祖返りの意見も通るようになってきたのかも知れません。
それをモンゴル力士は部屋ではなくモンゴル力士同士でやり始めたと言う事かも知れませんね。ただ、モンゴル力士と言う訳ではなく、角界すべてにこのような風潮があったように思います。
ですから、このような先祖返りする相撲と、若乃花が改革した昭和の相撲とのぶつかり合い、それが今、白鳳と若乃花の対決になっているように感じます。
貴乃花は若乃花の流れをくむ昭和相撲の伝統を守りたい一心なのかも知れません。対する白鳳は八角親方の緩い流れを擁護する先祖返り相撲で、その対決のようにも見えます。
大相撲は年6回ですが、相撲はその他に巡業などの地方回りもします。ですから常に真剣勝負では身体が持たないことも事実だと思います。
放置しておけばどんどん規律が下がってしまうこともあります。かといって常に緊張状態では精神的にもまいってしまうでしょう。
貴乃花の昭和相撲を取り戻そうとしていることと、八角親方の緩すぎる放置主義、さて落としどころはどうなるでしょうか。
大相撲はスポーツではありません。しかし興行を行い観客動員数は常に問題になります。そして現在は限られた客席で都市部では入場券は売れていているようです。
お金が入ると一種の利権が生じてきます。ここら辺からさまざまな問題が出てきているように見えませんか?
この元を辿れば、戦後の角界を作った初代若乃花の哲学に戻るように思うのです。
相撲は、奉納相撲として戦中も行われておりました。真珠湾攻撃から始まった大東亜戦争の時代も。秋場所が無くなったり春場所が無くなったり、力士を戦争に取られたりしながらも、興行だけは続いていたようです。
敗戦が決まった昭和20年も、さすがに春場所は無かったようですが夏場所と秋場所は行われたようです。
でも、この頃の相撲は年間3場所で、春場所、夏場所、そして秋場所だけだったとか。相撲の日数も10日制で、10勝で全勝だったそうですね。
国家神道と結びついて、相撲は戦争中も続けられていたのでしょう。だから敗戦と同時にGHQが相撲の邪魔を始めます。両国国技館はGHQによって接収されました。それでも相撲協会は、明治神宮外苑の野天相撲や浜町の仮設国技館などで興行を続け、GHQに反発していました。
戦前に相撲協会が買っていた蔵前の土地に、海軍戦闘機組立工場の払い下げで入手した鉄骨を使って収容人員は約11,000人。2階建てで、1階は溜まり席と枡席、2階は椅子席と貴賓席を持つ蔵前国技館が開設されます。昭和29年のことでした。
力道山などと同じ二所ノ関部屋に属していた若乃花は、昭和27年に芝田山部屋から花籠部屋に名跡変更された花籠部屋の力士となります。
そして若乃花は、敗戦で生活苦にあえぎ相撲どころではない国民を、いかにして国技館に呼び込み、そして館内を満員にするかを考えていたと言います。
これまでの相撲が、星の貸し借りによってなれ合い相撲になっていることも問題でした。江戸時代ならそれでもよかったようですが、明治、大正、そして昭和の時代になっても、そのしきたりのようなものは角界の常識になっていたようです。
若乃花はそれを改革することに決めたようです。ともかく強くなって横綱になることと、勝負を客観的に誰でも納得のいくようにすることだったのではないかと思います。
GHQによって国家神道は解体され、神道が一つの宗教になってしまったこともあり、奉納相撲ではなく、興行として経済力のある相撲にしなければならないという切実な問題もあったはずです。
そこで、それまで年間3場所だった大相撲を年間6場所に変え、NHKの中継も行うようにしたのだと思います。
始まったばかりのテレビの中継が入り、勝負の判定を「分解写真」という技術を使って客観的に判るようにして行きます。
そして若乃花は稽古に励み、ライバル栃錦を得て栃若時代を作り、そして相撲の人気を高めて興行的に成功させて行ったわけです。
しかしこの時代も50年以上の年月を経過すると、やがて昔の星の貸し借りが戻ってきてしまったようです。
相撲が大変な訓練と精神力を必要とすることは、他のスポーツと同じです。一種のプロスポーツですから、顧客動員が出来れば星の貸し借りは構わないのではないか・・などという先祖返りの意見も通るようになってきたのかも知れません。
それをモンゴル力士は部屋ではなくモンゴル力士同士でやり始めたと言う事かも知れませんね。ただ、モンゴル力士と言う訳ではなく、角界すべてにこのような風潮があったように思います。
ですから、このような先祖返りする相撲と、若乃花が改革した昭和の相撲とのぶつかり合い、それが今、白鳳と若乃花の対決になっているように感じます。
貴乃花は若乃花の流れをくむ昭和相撲の伝統を守りたい一心なのかも知れません。対する白鳳は八角親方の緩い流れを擁護する先祖返り相撲で、その対決のようにも見えます。
大相撲は年6回ですが、相撲はその他に巡業などの地方回りもします。ですから常に真剣勝負では身体が持たないことも事実だと思います。
放置しておけばどんどん規律が下がってしまうこともあります。かといって常に緊張状態では精神的にもまいってしまうでしょう。
貴乃花の昭和相撲を取り戻そうとしていることと、八角親方の緩すぎる放置主義、さて落としどころはどうなるでしょうか。
大相撲はスポーツではありません。しかし興行を行い観客動員数は常に問題になります。そして現在は限られた客席で都市部では入場券は売れていているようです。
お金が入ると一種の利権が生じてきます。ここら辺からさまざまな問題が出てきているように見えませんか?
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