インターネットを見ていると、時々「Unicef」という機関から寄付のお願いのような広告が表示されます。
日本の場合は日本ユニセフからのお願いとなるのでしょうか。
これは第二次大戦が終わった翌年、1946年に設立された「国連児童基金」のことで、世界中の子どもたちの命と健康を守るために活動する国連機関と言うことです。
「子どもの権利条約」、「2030アジェンダ」、「ユニセフ事業計画」などの基本計画を立案し、極度の貧困と飢餓の撲滅などを目指して頑張って居る期間と言うことですが・・・
表示される広告には、飢餓で死にそうな黒人の子供の写真を掲載して、「あなたの寄付でこの子が生きることが出来る」的な寄付の誘いをやっているだけです。
しかし本当の救いがお金でできるわけはありません。その子供が生き抜いて、自活できるかどうかが問題なのです。
我が日本は、このユニセフに対する協力をODA(政府開発援助)で行っているようです。日本のODAは私の知る限り単に金を渡すだけでなく、その後も自活を出来るように、そこまでのフォローをするものだったはずです。
しかしネットに表示されるユニセフの広告にはそのことは書かれていません。「今日死ぬ命があなたの寄付で明日死ぬようになります」というような書き方ですね。
これではとても賛同できません。
三橋貴明氏が述べていましたが、「欧米はかわいそうな子供に鉛筆をプレゼントするが、日本はその鉛筆の作り方を親に教える。これが本当の支援だ」と述べておりました。その通りだと思います。
作り方を教えれば、それは彼らにとっての経済活動に繋がります。経済活動が活性化すれば、みずからの力で生きていくことが可能になるわけです。
ユニセフの寄付は、そういう意味でまったく意味をなさないと思う訳です。
若しユニセフが貧困国に生産技術を供与するのであれば、それをもっと前面に出すべきです。同情をかって寄付を集めるような活動はやめてほしいですね。
これはキリスト教文化からの発想のように思います。教会では例は維持に時々寄付集めを行っています。集めたお金で孤児などを養うためだったようですが、産業革命前は欧州では政治が弱者を救っていなかったからでしょう。
しかしこのキリスト教的寄付文化は、免罪符のようにも思うのです。寄付することで自分が清められるような感覚、神社の賽銭と似ていますね。
幾ら莫大な寄付を行っても、それは死に金に過ぎません。それはもうご承知の通りです。
英国の産業革命以後は、浮浪者を工場労働者として雇い入れ、少しばかりの給料を払いました。これが生産性を高めていったのですが、初期の頃は奴隷労働のようだったと思います。
産業革命は英国で始まりました。プライドの高い英国は、それゆえに浮浪児を12時間働かせて、夜は1時間ほど勉強をさせたようです。これがその後「大英帝国」のパワーとなったことはご承知の通りです。
そう、ほどこしのお金と給料とでは、経済的にまったく異質のものだからです。
上記の「鉛筆の作り方を教える」には、まずは生産設備を作るところから始めなければなりません。資本が必要です。そこに寄付金を使えば、寄付金が資本として生きてくるわけです。
後は生産した鉛筆を販売すれば、資本の回転が生まれます。こうしてかわいそうな子供は生きていくことが初めて出来ると言うことです。
単に「投げ銭」だけやっても、何の意味もないことはお判りですね。
「作り方を教えない」のは欧州の価値観かも知れませんね。しかし我が日本は、教えてそして共に栄えることを「良し」としています。
八紘一宇がそれを表明しています。このブログでは何度か書きましたが、神武天皇の著わした「日本国の価値概念」です。
「全ての人々が同じ屋根のある家に住む」と解釈していますが、それは屋根のある家を作ってやるのではなく、その作り方をあまねく教えるという意味なのだろうと考えています。
明治以降、日本はアジア各地に工業を興し、そして太平洋の島々に農業を伝達してきました。教育を施し、そして共に繁栄しようと努力してきました。
その為に欧州列強とぶつかり、戦争を賭して彼らを追い出しました。残念ながらアメリカの裏切りによって戦争には負けましたが、それでも現在も尚この方式を続けております。それがODAというわけですね。
我が国は、この八紘一宇:ODAの方式を世界に訴えていくべきです。キリスト強国の寄付金による偽善を止めさせ、八紘一宇という日本の基本戦略に変えていくことこそ、わが日本の存在意義であると思うのですけど・・・
これは第二次大戦が終わった翌年、1946年に設立された「国連児童基金」のことで、世界中の子どもたちの命と健康を守るために活動する国連機関と言うことです。
「子どもの権利条約」、「2030アジェンダ」、「ユニセフ事業計画」などの基本計画を立案し、極度の貧困と飢餓の撲滅などを目指して頑張って居る期間と言うことですが・・・
表示される広告には、飢餓で死にそうな黒人の子供の写真を掲載して、「あなたの寄付でこの子が生きることが出来る」的な寄付の誘いをやっているだけです。
しかし本当の救いがお金でできるわけはありません。その子供が生き抜いて、自活できるかどうかが問題なのです。
我が日本は、このユニセフに対する協力をODA(政府開発援助)で行っているようです。日本のODAは私の知る限り単に金を渡すだけでなく、その後も自活を出来るように、そこまでのフォローをするものだったはずです。
しかしネットに表示されるユニセフの広告にはそのことは書かれていません。「今日死ぬ命があなたの寄付で明日死ぬようになります」というような書き方ですね。
これではとても賛同できません。
三橋貴明氏が述べていましたが、「欧米はかわいそうな子供に鉛筆をプレゼントするが、日本はその鉛筆の作り方を親に教える。これが本当の支援だ」と述べておりました。その通りだと思います。
作り方を教えれば、それは彼らにとっての経済活動に繋がります。経済活動が活性化すれば、みずからの力で生きていくことが可能になるわけです。
ユニセフの寄付は、そういう意味でまったく意味をなさないと思う訳です。
若しユニセフが貧困国に生産技術を供与するのであれば、それをもっと前面に出すべきです。同情をかって寄付を集めるような活動はやめてほしいですね。
これはキリスト教文化からの発想のように思います。教会では例は維持に時々寄付集めを行っています。集めたお金で孤児などを養うためだったようですが、産業革命前は欧州では政治が弱者を救っていなかったからでしょう。
しかしこのキリスト教的寄付文化は、免罪符のようにも思うのです。寄付することで自分が清められるような感覚、神社の賽銭と似ていますね。
幾ら莫大な寄付を行っても、それは死に金に過ぎません。それはもうご承知の通りです。
英国の産業革命以後は、浮浪者を工場労働者として雇い入れ、少しばかりの給料を払いました。これが生産性を高めていったのですが、初期の頃は奴隷労働のようだったと思います。
産業革命は英国で始まりました。プライドの高い英国は、それゆえに浮浪児を12時間働かせて、夜は1時間ほど勉強をさせたようです。これがその後「大英帝国」のパワーとなったことはご承知の通りです。
そう、ほどこしのお金と給料とでは、経済的にまったく異質のものだからです。
上記の「鉛筆の作り方を教える」には、まずは生産設備を作るところから始めなければなりません。資本が必要です。そこに寄付金を使えば、寄付金が資本として生きてくるわけです。
後は生産した鉛筆を販売すれば、資本の回転が生まれます。こうしてかわいそうな子供は生きていくことが初めて出来ると言うことです。
単に「投げ銭」だけやっても、何の意味もないことはお判りですね。
「作り方を教えない」のは欧州の価値観かも知れませんね。しかし我が日本は、教えてそして共に栄えることを「良し」としています。
八紘一宇がそれを表明しています。このブログでは何度か書きましたが、神武天皇の著わした「日本国の価値概念」です。
「全ての人々が同じ屋根のある家に住む」と解釈していますが、それは屋根のある家を作ってやるのではなく、その作り方をあまねく教えるという意味なのだろうと考えています。
明治以降、日本はアジア各地に工業を興し、そして太平洋の島々に農業を伝達してきました。教育を施し、そして共に繁栄しようと努力してきました。
その為に欧州列強とぶつかり、戦争を賭して彼らを追い出しました。残念ながらアメリカの裏切りによって戦争には負けましたが、それでも現在も尚この方式を続けております。それがODAというわけですね。
我が国は、この八紘一宇:ODAの方式を世界に訴えていくべきです。キリスト強国の寄付金による偽善を止めさせ、八紘一宇という日本の基本戦略に変えていくことこそ、わが日本の存在意義であると思うのですけど・・・
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