12日午後、天気も良いので明治神宮に知人と出かけました。
多くの人が参拝に来ていて、しかも英語やフランス語、そしてタイ語、中国語などが飛び交っております。国際的な観光名所になってしまったかのような明治神宮の昨今です。
参拝を済ませてから、明治神宮宝物殿というところに行ってまいりました。
明治神宮宝物殿は、明治神宮が創建された翌年の大正10年(1921)10月末に竣工、奈良の正倉院の校倉造りを模した鉄筋コンクリート建築の代表的な建物だそうです。
ここで何か釈然としないものを感じました。奈良・正倉院は木造であり、校倉作り(あぜくらつくり)という独特の工法で出来ています。
そしてこの木造建築だけが、奈良時代から今日まで修理はしても建て替えはしない木造建築なのです。
よく、校倉作りを北米のログハウスと同様の工法としている文章を見受けますが、ログハウスは1000年以上も持たないでしょう。
校倉作りは、丸太ではなく、外側に向いたフィンと、かすかな隙間を開け、空気が流通するようにして、しかも湿気があると、この隙間が木材の膨潤でふさがるように仕掛けられています。
外側に向いたフィンは、中に向かう風の流れを圧縮し、中に吹き出す時は断熱膨張で乾燥することを知っているような、そんな仕掛けです。
木材にとっては湿気が腐敗につながります。奈良時代の匠の神技は、宝物を湿気から守り、しかも空気を循環させて乾燥をもたらすという、現代建築技術をもってしても出来ないようなことをやってのけた建築です。
これが校倉作りの基本だと思いますが、この明治神宮宝物殿は、当時としては最先端技術の鉄筋コンクリート作りと言うことですから、校倉作りの形骸化した様式だけのものでしかありません。
それを「校倉風大床造り」と称すなど、どうも不愉快なイミテーションのように見えて仕方ありませんね。
さて、建物が不愉快な明治神宮の宝物殿ですが、中に入ると歴代の天皇陛下の肖像画がかけられておりました。
どうして肖像画があるのか、判らない人物の顔を描く必要があるのか、その意味は?・・
気になるのは、中に女性天皇と見える肖像があることです。何代かは覚えておりませんが、恐らく幼少の天皇で、摂政として母親などが執務を行った時代なのでしょう。 が、どうもそこには女性天皇を容認するような、不愉快なイメージが伺えます。
そして、初代天皇陛下である「神武天皇」の肖像を見たとき、その顔が、あのオウム真理教の「麻原彰晃」に似ていることに驚かされました。
一緒に行った友人も、あとで「まったく・・・」と同意していましたから、何かそこに意図的なものを感じてしまうのです。
今から2675年も前の肖像ですから、どのように描いても仕方ないのですが、それにしても・・・・
我々の主観かも知れませんから、もし興味のある方は明治神宮の宝物殿でご覧になってください。似ていないと思われれば、我々が間違っていたことになりますが。
その後、この宝物館の入場券(500円)があれば、特別展示の「『源氏物語』でみる宮廷装束の雅展」も見られますと言うことでしたので、そちらも見に行きました。
展示内容は主として「十二単」の説明につぎ込まれていました。橙色に染められた衣から、白い衣を何枚か着て、その上にさらに赤や緑、そして紫と言った色のついた絹の衣を合わせて着るとのことですが、展示には、その絹の原糸と、染に使った草木の種類などが展示されていました。
ここで、絹糸の説明にデニールという単位が使われておりました。デニールが繊維の太さを表現する単位であることは判っておりますが、この単位は化繊が出来てから定義された単位ですので、古代の絹糸の説明には何か違和感を覚えます。
この絹糸は「2デニールだ」という説明になっておりますが、判りにくいのではないでしょうか。
つまり、この絹糸1本を9000mで切って計った重さが2グラムであるという意味になります。軽いことを表示したかったのかも知れませんが、だったら「原糸1本9000mにした時の重さが2グラム」と書かないと、専門家以外には判らないのではないでしょうか。
明治維新で、瞬時にして中央集権を成し遂げた日本。その為に戦った犠牲者を靖国神社に招魂し、自らの崩御の後に作られた明治神宮。
和魂洋才の大義の元、近代化を急いだ日本。しかし今振り返れば、日本の培ってきた大和的な感性は、欧米列強をも凌駕していたことに気付かされます。
1000年以上を経過してもその神技が衰えを見せない奈良・正倉院。それを鉄筋コンクリートで模倣した明治神宮の宝物殿が、今後何年維持可能なのか、それは今後の経過を見なければ判りません。
奈良・正倉院も、作られた直後はこの匠の技を見ることは出来なかったはずですね。1000年以上の経過を見た今だからこそ「これを作ったのは神様だ」と感じられるのでしょう。
この鉄筋コンクリートも、1000年以上持つ神技だったとしたら・・・それは1000年後のお楽しみですけど・・・
参拝を済ませてから、明治神宮宝物殿というところに行ってまいりました。
明治神宮宝物殿は、明治神宮が創建された翌年の大正10年(1921)10月末に竣工、奈良の正倉院の校倉造りを模した鉄筋コンクリート建築の代表的な建物だそうです。
ここで何か釈然としないものを感じました。奈良・正倉院は木造であり、校倉作り(あぜくらつくり)という独特の工法で出来ています。
そしてこの木造建築だけが、奈良時代から今日まで修理はしても建て替えはしない木造建築なのです。
よく、校倉作りを北米のログハウスと同様の工法としている文章を見受けますが、ログハウスは1000年以上も持たないでしょう。
校倉作りは、丸太ではなく、外側に向いたフィンと、かすかな隙間を開け、空気が流通するようにして、しかも湿気があると、この隙間が木材の膨潤でふさがるように仕掛けられています。
外側に向いたフィンは、中に向かう風の流れを圧縮し、中に吹き出す時は断熱膨張で乾燥することを知っているような、そんな仕掛けです。
木材にとっては湿気が腐敗につながります。奈良時代の匠の神技は、宝物を湿気から守り、しかも空気を循環させて乾燥をもたらすという、現代建築技術をもってしても出来ないようなことをやってのけた建築です。
これが校倉作りの基本だと思いますが、この明治神宮宝物殿は、当時としては最先端技術の鉄筋コンクリート作りと言うことですから、校倉作りの形骸化した様式だけのものでしかありません。
それを「校倉風大床造り」と称すなど、どうも不愉快なイミテーションのように見えて仕方ありませんね。
さて、建物が不愉快な明治神宮の宝物殿ですが、中に入ると歴代の天皇陛下の肖像画がかけられておりました。
どうして肖像画があるのか、判らない人物の顔を描く必要があるのか、その意味は?・・
気になるのは、中に女性天皇と見える肖像があることです。何代かは覚えておりませんが、恐らく幼少の天皇で、摂政として母親などが執務を行った時代なのでしょう。 が、どうもそこには女性天皇を容認するような、不愉快なイメージが伺えます。
そして、初代天皇陛下である「神武天皇」の肖像を見たとき、その顔が、あのオウム真理教の「麻原彰晃」に似ていることに驚かされました。
一緒に行った友人も、あとで「まったく・・・」と同意していましたから、何かそこに意図的なものを感じてしまうのです。
今から2675年も前の肖像ですから、どのように描いても仕方ないのですが、それにしても・・・・
我々の主観かも知れませんから、もし興味のある方は明治神宮の宝物殿でご覧になってください。似ていないと思われれば、我々が間違っていたことになりますが。
その後、この宝物館の入場券(500円)があれば、特別展示の「『源氏物語』でみる宮廷装束の雅展」も見られますと言うことでしたので、そちらも見に行きました。
展示内容は主として「十二単」の説明につぎ込まれていました。橙色に染められた衣から、白い衣を何枚か着て、その上にさらに赤や緑、そして紫と言った色のついた絹の衣を合わせて着るとのことですが、展示には、その絹の原糸と、染に使った草木の種類などが展示されていました。
ここで、絹糸の説明にデニールという単位が使われておりました。デニールが繊維の太さを表現する単位であることは判っておりますが、この単位は化繊が出来てから定義された単位ですので、古代の絹糸の説明には何か違和感を覚えます。
この絹糸は「2デニールだ」という説明になっておりますが、判りにくいのではないでしょうか。
つまり、この絹糸1本を9000mで切って計った重さが2グラムであるという意味になります。軽いことを表示したかったのかも知れませんが、だったら「原糸1本9000mにした時の重さが2グラム」と書かないと、専門家以外には判らないのではないでしょうか。
明治維新で、瞬時にして中央集権を成し遂げた日本。その為に戦った犠牲者を靖国神社に招魂し、自らの崩御の後に作られた明治神宮。
和魂洋才の大義の元、近代化を急いだ日本。しかし今振り返れば、日本の培ってきた大和的な感性は、欧米列強をも凌駕していたことに気付かされます。
1000年以上を経過してもその神技が衰えを見せない奈良・正倉院。それを鉄筋コンクリートで模倣した明治神宮の宝物殿が、今後何年維持可能なのか、それは今後の経過を見なければ判りません。
奈良・正倉院も、作られた直後はこの匠の技を見ることは出来なかったはずですね。1000年以上の経過を見た今だからこそ「これを作ったのは神様だ」と感じられるのでしょう。
この鉄筋コンクリートも、1000年以上持つ神技だったとしたら・・・それは1000年後のお楽しみですけど・・・
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