神戸に生まれ、一橋大学法学部を卒業した石原慎太郎氏。大学では社会心理学の南博ゼミに学び、在学中に「太陽の季節」を発表したエリートでした。
この「太陽の季節」は、裕福な家庭に育った若者の無軌道な生活を通して、感情を物質化するような当時の若者を描き、「ストーリーが倫理性に欠ける」などと非難もされましたが、1955年に文學界新人賞を受賞しました。
この「太陽の季節」が映画化される時、弟・裕次郎をデビューさせるという兄弟の結束も見せた慎太郎でした。
三島由紀夫氏とともに、「日本」に対する思い入れが深く、右翼のように言われていますが、それはちょっと違うようです。
三島氏と石原氏は10歳の年の開きがあります。三島氏が1925年生まれに対し、石原氏は1935年生まれです。そして、この10年が二人の意識に決定的な違いをもたらしていたようです。その10年というズレに、あの大東亜戦争の記憶の違いがあったからだと思います。
三島氏は、大東亜戦争で多くの友人を見送ったのでしょう。しかし身体の弱かった三島氏は徴兵検査にで乙種合格。その劣等感が、彼を戦後「ボデイビル」に向かわせたようですね。
しかし、その日本文学の才能は誰もが認めるところ。そしてその才能を持って、何とか敗戦・日本を復活させ、本来の日本に戻そうと活躍しておりました。敗戦と同時に手のひらを返したように「アメリカ」に尾を振る有識者達を許せなかったようです。
対する石原氏は、海運会社・山下汽船の重役の長男でした。世代的には「焼け跡の世代」なのでしょうが、その小説にはあまり敗戦・日本の姿は出てきません。
趣味はサッカー、ヨット、テニス、スキューバダイビング、射撃と、何となくアメリカ的で、敗戦・日本を再興しようとするところは三島氏と同じでありながら、どこかが決定的に違っていた二人でした。
その石原氏が政界に打って出たのは1968年でした。参議院議員として当選し、1972年に衆議院に鞍替えして当選。
何といっても弟・「裕次郎」の応援演説が一番効いたのかも知れませんね。
1970年に三島由紀夫氏が割腹自殺を遂げられてから、一水会という「三島氏の遺志を受け継ぐ会」が出来ましたが、一方の石原氏は自由民主党の派閥横断的に結成された保守派の衆参両若手議員31名からなる政策集団「青嵐会」を作りました。
青嵐会は、石原氏だけでなく中川一郎氏、渡辺美智雄氏、加藤六月氏、浜田幸一氏、森喜朗氏、綿貫民輔氏、野田毅氏、山崎拓氏などで構成されていました。
亡くなった方もおられますし、袂を分かち、おかしな方向(親中)へ走った方々も居られるようです。しかし、青嵐会結成時はまだ若く、日本の未来を本当に考えていたのでしょう。
青嵐会そのものは、中華民国(現・台湾)支持の立場を取り、故)田中角栄首相による日中国交正常化に伴う中華民国との断交に絶対反対の姿勢を貫きました。
現在、石原慎太郎氏が常に中共から名指しで「右翼呼ばわり」されるのも、このような背景があるからでしょう。
しかし、石原氏の言ったとうり中共は暴力で周辺諸国を苦しめる「馬賊国家」に戻りつつあります。習近平主席が執っている最近の汚職撲滅と法の執行などを見ても、とても近代国家とは思えませんからね。
そういう意味で、石原慎太郎氏の指摘する中共は、正しかったと言えるのではないでしょうか。
引退の記者会見で、記者からの質問に「週刊誌で『シナと戦争して勝つこと』と発言されています。それは文学者としての発言なのでしょうか、それとも政治家としての発言ですか。日本政府が尖閣諸島を国有化した後に海域の緊張が続いていることをどう思いますか」というものがありました。
これに対して石原氏は、「私が首相なら追っ払う。ある週刊誌のインタビューで『一番したいこと』を聞かれたので『シナと戦争して勝つこと』と。私は日本人として言った」と述べ、「衝突を仕掛けているのは中国だ。けんか仕掛けているのは向こうだ。日本の領海に入っているのはシナ人の方だ。頭を冷やした方がいいよ、シナの人は」と加えました。
確かにその通りだと思います。シナ(中共)は攻撃的に出れば引っ込みます。口では騒ぎますが、彼らは戦争は出来ないのです。結束し国家防衛に当たることが出来ないのです。人民解放軍が共産党のために死を覚悟しているとは思えません。
引き下がってしまうと助長してきます。現在の日本が陥っているのはこの点です。中共の強引な侵攻は、何もしないから続くのです。しかし暴力的対応をすれば引き下がります。戦争にはならないでしょう。
それが本当かどうか、一回やってみれば判ります。
それをしないで、政界を去る石原慎太郎氏。あとを託すのは「安倍晋三首相」しか居りません。
この石原氏の思いを、安倍首相にはしっかりと受け止めて欲しいものですね。
この「太陽の季節」が映画化される時、弟・裕次郎をデビューさせるという兄弟の結束も見せた慎太郎でした。
三島由紀夫氏とともに、「日本」に対する思い入れが深く、右翼のように言われていますが、それはちょっと違うようです。
三島氏と石原氏は10歳の年の開きがあります。三島氏が1925年生まれに対し、石原氏は1935年生まれです。そして、この10年が二人の意識に決定的な違いをもたらしていたようです。その10年というズレに、あの大東亜戦争の記憶の違いがあったからだと思います。
三島氏は、大東亜戦争で多くの友人を見送ったのでしょう。しかし身体の弱かった三島氏は徴兵検査にで乙種合格。その劣等感が、彼を戦後「ボデイビル」に向かわせたようですね。
しかし、その日本文学の才能は誰もが認めるところ。そしてその才能を持って、何とか敗戦・日本を復活させ、本来の日本に戻そうと活躍しておりました。敗戦と同時に手のひらを返したように「アメリカ」に尾を振る有識者達を許せなかったようです。
対する石原氏は、海運会社・山下汽船の重役の長男でした。世代的には「焼け跡の世代」なのでしょうが、その小説にはあまり敗戦・日本の姿は出てきません。
趣味はサッカー、ヨット、テニス、スキューバダイビング、射撃と、何となくアメリカ的で、敗戦・日本を再興しようとするところは三島氏と同じでありながら、どこかが決定的に違っていた二人でした。
その石原氏が政界に打って出たのは1968年でした。参議院議員として当選し、1972年に衆議院に鞍替えして当選。
何といっても弟・「裕次郎」の応援演説が一番効いたのかも知れませんね。
1970年に三島由紀夫氏が割腹自殺を遂げられてから、一水会という「三島氏の遺志を受け継ぐ会」が出来ましたが、一方の石原氏は自由民主党の派閥横断的に結成された保守派の衆参両若手議員31名からなる政策集団「青嵐会」を作りました。
青嵐会は、石原氏だけでなく中川一郎氏、渡辺美智雄氏、加藤六月氏、浜田幸一氏、森喜朗氏、綿貫民輔氏、野田毅氏、山崎拓氏などで構成されていました。
亡くなった方もおられますし、袂を分かち、おかしな方向(親中)へ走った方々も居られるようです。しかし、青嵐会結成時はまだ若く、日本の未来を本当に考えていたのでしょう。
青嵐会そのものは、中華民国(現・台湾)支持の立場を取り、故)田中角栄首相による日中国交正常化に伴う中華民国との断交に絶対反対の姿勢を貫きました。
現在、石原慎太郎氏が常に中共から名指しで「右翼呼ばわり」されるのも、このような背景があるからでしょう。
しかし、石原氏の言ったとうり中共は暴力で周辺諸国を苦しめる「馬賊国家」に戻りつつあります。習近平主席が執っている最近の汚職撲滅と法の執行などを見ても、とても近代国家とは思えませんからね。
そういう意味で、石原慎太郎氏の指摘する中共は、正しかったと言えるのではないでしょうか。
引退の記者会見で、記者からの質問に「週刊誌で『シナと戦争して勝つこと』と発言されています。それは文学者としての発言なのでしょうか、それとも政治家としての発言ですか。日本政府が尖閣諸島を国有化した後に海域の緊張が続いていることをどう思いますか」というものがありました。
これに対して石原氏は、「私が首相なら追っ払う。ある週刊誌のインタビューで『一番したいこと』を聞かれたので『シナと戦争して勝つこと』と。私は日本人として言った」と述べ、「衝突を仕掛けているのは中国だ。けんか仕掛けているのは向こうだ。日本の領海に入っているのはシナ人の方だ。頭を冷やした方がいいよ、シナの人は」と加えました。
確かにその通りだと思います。シナ(中共)は攻撃的に出れば引っ込みます。口では騒ぎますが、彼らは戦争は出来ないのです。結束し国家防衛に当たることが出来ないのです。人民解放軍が共産党のために死を覚悟しているとは思えません。
引き下がってしまうと助長してきます。現在の日本が陥っているのはこの点です。中共の強引な侵攻は、何もしないから続くのです。しかし暴力的対応をすれば引き下がります。戦争にはならないでしょう。
それが本当かどうか、一回やってみれば判ります。
それをしないで、政界を去る石原慎太郎氏。あとを託すのは「安倍晋三首相」しか居りません。
この石原氏の思いを、安倍首相にはしっかりと受け止めて欲しいものですね。
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