英紙報道として、米国人ジャーナリスト、ジェームズ・フォーリー氏を処刑したのはロンドン西部に住んでいたアラブ系移民の英国人が容疑者だと発表されたそうです。
これはインターネットに公開された処刑の映像で、「米国による空爆はすべてのイスラム教徒への宣戦布告だ」などと述べてから、ジェームズ・フォーリー氏の首をナイフで切った動画の分析で判ったようです。
この容疑者の名前はアブデル-マジェド・アブデル・バリー。ネット上のニックネームは「ジハディ・ジョン(聖戦主義のジョン)」と言って、この6月に「薄汚れた者(キリスト教徒)達よ、ライオンは間もなくお前たちの裏庭に首を切りに現れる」とツイッターに書き込んでいたそうです。
バリー容疑者の父親は、1998年のケニアとタンザニアの米国大使館爆破事件に関与したとして、米国当局からテロ罪で起訴されている人物。
そしてバリー容疑者はロンドン西部でヒップホップアーティストとして生活していたようで、1年前に英国を出国、イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」の構成員になっていたと見られます。
これをあくまでも殺人事件として扱う英国です。
ハモンド英外相は、「実行犯の行為は英国民がよりどころとする全てへの『完全な裏切り』であり、野蛮なイスラム過激主義は、私たちの国にも脅威となっている」と述べました。
無人機を使用するアメリカのイスラム過激派への攻撃を、「野蛮ではない」とする客観的説明はどのようなものなのか、私には解りませんが、ともかく世界の趨勢としてイスラムの行為は野蛮な犯罪として扱うというコンセンサスが出来上がりつつあるようです。
「イスラム国」という名前が意味するものは、この「野蛮なイスラムの行為」を「戦争」なのだ・・としたいイスラム過激派の意図なのでしょうね。
ですから国名のような組織名にしたのではないでしょうか。
しかしながら、近代国家を形成出来ないイスラムの価値観は、近代国家を形成できる価値観とは相入れることもなく、このような無益な争いが今後も続くでしょう。いくら犯罪として処理しようとしても・・・
欧米の感覚ですと、犯罪者に対しては「警察権」で立ち向かえることになります。特定の個人、あるいは団体に対して、警察権の行使としての軍隊の使用がなされます。そして間違いなく、最近開発される兵器はこのような場合の仕様を満たしています。無人機も、ロボット兵器もその一つではないでしょうか。
イスラムの価値観に対して、このような対立概念で立ち向かう限り、それが警察権となったとしても際限なく続くことは間違いないでしょう。
そこにキリスト教文化の限界があるように思います。
さて、復興支援としてイラク・サマーワに出向いた我が国自衛隊が、現地でキリスト教国から見て信じられない働きをしたことは、今や有名なお話です。
https://www.youtube.com/watch?v=3ZsaykjjEbs
この部隊を指揮した番匠幸一郎大佐は、後にオフレコの集会で、この時に使ったのは「任侠道だ」とポツンと話したという噂を聞きました。
欧米が日本の強さを表現する時、よく「武士道」を使います。新渡戸先生が「騎士道」に対しての日本の価値観を表現する時に使った言葉が「武士道」ですから、欧米では判りやすいのでしょう。(江戸時代には武士道などと言う言葉はありませんでした)
しかし「任侠道」は知らないはずです。理解するとすれば「やくざ映画」でしょうし、「ヤクザ=暴力団」としてしまった現在の日本では、それは「犯罪」と繋がる忌むべき言葉になってしまったからです。
しかし、戦後まもない時期に「東海道任侠伝」の浪花節に感動した人も多いはずです。任侠道は武士道に並ぶ我が国の価値体系であることに変わりはありません。
そしてこの「任侠道」の中の何かが、サマーワのイスラム教徒たちに感動を与えたのだと思います。
キリスト教的価値観による近代化の中で、任侠道→やくざ→暴力団→犯罪・・としている現在の日本です。しかし、これで良いのでしょうか?
「暴れん坊将軍」というドラマの中では、将軍・吉宗とともに江戸の町を守る「め組の火消・辰五郎」の活躍が描かれます。
武士道と任侠道が共鳴しながら、同じ正義を実践するというこのドラマに人気があったことは、日本人の価値観が今も変わっていないことを裏付けていると思っております。
イスラム過激派を犯罪者とすることが出来たとしても、それが単に犯罪者を増やすだけでは何もなりません。
「警察権」よりも「目明し」の価値観が必要とされるのではないでしょうか?
それには「任侠道」の再生が必要ではないかと思う今日この頃です。世界の安定のために・・・・
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