今、桜が満開です。桜と言えば染井吉野。3月の終わりから4月の始めにパッと咲いてすぐに散って行く桜が、日本人の潔さ(いさぎよさ)とマッチして、桜と言えば染井吉野と言われるくらいに普及しました。
「大日本帝国」の海軍は「桜と錨」の紋章を持ち、大東亜戦争・太平洋戦線でアメリカ艦隊に体当たり攻撃をして、その潔さを見せて散って逝かれました。
「靖国神社で桜の花となってまた会おう」というのが彼らの心情だったようにも聞いております。そしてその靖国神社には桜・染井吉野の開花を告げる基準木があります。
その染井吉野が、今から100年以上前にアメリカに渡ったことも事実です。つまり日本とアメリカはその頃からもずっと友好関係にあったわけです。
1902年、アメリカから日本の横浜に来ていた農務省のデビッド・フェアチャイルド氏が、染井吉野の美しさを見てアメリカにも植えることを決意します。
今から120年以上前に創業された園芸会社「横浜植木」が、フェアチャイルド氏とともにこの事業を推進し、ついにワシントンDCに桜・染井吉野を植えることに成功したのです。
現在の横浜植木の有吉和夫氏は、「私たちの会社にとって大変名誉な仕事でした」と語っておられます。
もちろんアメリカですからきちんとお返しをしました。「ハナミズキ」が街路樹として人気がありますが、あのハナミズキがアメリカからのお返しなのです。
その友好国であったアメリカと我が日本が。何故戦争をしたのか、そのことについては割愛しますが、そこにはフェアチャイルドではなくロスチャイルドの陰謀が働いたのかも知れません。
桜と錨の特攻隊。その体当たり攻撃には「命を賭してアメリカの間違い、その眼を覚ましてやる!」という意気込みがあったようです。
これこそが、アメリカに対し日本が見せた「真の友情」ではないかと思うのですけどね。
さて、話を染井吉野に戻しますが、染井吉野はエドヒガンとオオシマザクラの雑種が交雑して生まれたサクラの中から特徴のある特定の一本を選び抜いて接ぎ木で増やしていったクローンなのです。
サクラもウメもその基をたどればバラ科の花で、交配が簡単に行われさまざまな雑種が生まれます。江戸時代は花見と言えば山桜とか彼岸桜などだったでしょう。明治になって染井村(現在の駒込あたり)に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成された桜が染井吉野です。
この染井吉野はゲノム構成がヘテロ接合性が高くて、染井吉野に結実した種子では同じゲノム構成の品種にはならないそうです。従って自家不和合性が強く染井吉野同士では結実の可能性に劣り、結果純粋に染井吉野を両親とする種子が発芽に至ることはないということ。
ですから少ない原木からクローンによる接ぎ木で全国に販売されたのです。遺伝子操作で作られた商品だったわけですね。
また、多く植えられているため、地域に自生する野生のサクラと交雑してしまう遺伝子汚染が発生していて、野生桜が自生する地域に染井吉野を植える際には注意が必要であるとの警告も出されております。
さらに病気にも弱く、特に茎・枝が異常に密生する奇形症状を示す「てんぐ巣病」に掛かりやすいそうです。
ところが、アメリカに渡った染井吉野が何と自然交配してしまったのか、染井吉野にそっくりなアケボノと言う桜が出来てきたのです。
このアケボノは雑種だけに病害虫に強く、花の形状も咲く時期も染井吉野に酷似しており、その苗木が日本に逆輸入されました。
そしてこの苗木を受け入れたのが「神代植物公園」でした。そこですくすく育ったアケボノは、その地で他の桜と交配して、またアケボノとは異なる雑種を作り出したわけです。(いかにもアメリカ帰りですね)
それがアケボノと異なる品種だというのを断言したのが植物学の権威「西田尚道」氏で、その桜を「神代曙」と命名したのは故)林弥栄氏です。
春、パッと咲いてすぐに散る美しい染井吉野。しかしそれは病気に弱く接ぎ木以外で子孫を残すことの出来ないひ弱な樹木だったのです。
しかし、100年前にアメリカに渡った子供は逞しくなって日本に戻り、そして日本で丈夫な子供を作りました。それが「神代曙」です。
現在、桜の植え替えに当たって、病害虫に強く、接ぎ木以外でも増やすことの出来て、染井吉野に酷似している桜「神代曙」に植え替えることを推奨しております。
明治以降、日本のお花見を独占してきた染井吉野。それは時代と共に消えゆく運命なのかも知れません。
そしてアメリカから戻った逞しい種、「神代曙」が未来の日本のお花見の華になることは・・・ちょっと複雑な気持ちも致しますね。
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