アメリカ国務省のヌランド報道官は、「国務省は『慰安婦』や『性的奴隷』などの言葉を互換が可能な用語として使っており、(今後も)継続していく」と述べました。
奴隷という言葉に敏感なアメリカらしい言い分ですね。クリントン長官が「性的奴隷」と表現するよう指示したことも、アメリカの奴隷コンプレックスの表れかも知れません。
もともとコロンブスが新大陸を発見して、移民が渡るようになってから、アメリカ大陸を実質統治していたのはフランス系の移民達でした。
その後、英国のアングロサクソンがメイフラワー号で渡って来ましたが、先に実権を握っているフランス移民には敬意を払っていました。
英国の宿敵フランスですが、新大陸に欧州の因縁を持ち込みたくは無かったこともあったようです。
しかし、英国はこのアメリカに不当に高い物品税を掛けていましたから、アメリカの経済は一向に向上しませんでした。
そこで「茶器(ティーパーティ)」ということで、集まって「アメリカの独立」を画策した一派が登場します。
関税(輸入物品税)が一番高かったのが「お茶(紅茶)」でした。ティーパーティとは、このお茶の関税を問題にし、茶葉を使わず、コーヒーをお茶のようにして入れた飲み物で会合をやったとか。
ちなみにこれがコーヒー「アメリカン」の発祥になります。
堪忍袋の緒が切れたアメリカ移民。ついに英国艦船の焼き討ちを始めます。「ティーパーティ」に行こうという合言葉で、独立戦争が始まり、ついに1789年、アメリカは独立を達成しました。
この時、アメリカの独立派を助けたのがフランス国家でした。そこでアメリカのトウモロコシで作った蒸留酒につけた名前が「バーボンウイスキー」。助けてくれたフランスの王朝がブルボンだったことからこの名前が使われたそうですね。
これでアメリカは清教徒の純な国家が作れると思っていたのに、したたかなのは英国アングロサクソンです。
産業国家になっていた英国は、原料調達国としてのアメリカの利用を考えました。産業とは、蒸気機関によって動く紡績機械のこと。そして原料とは、インド綿の輸入です。
インド綿はアメリカ南部でも生産できましたから、それを輸入することにしました。アメリカ南部は潤います。しかし急激な輸入量の増加は、生産が追いつかない状況に。それでも調達を迫る英国。「これ以上は無理です」と言うアメリカ。インド綿は額が硬く、綿の部分を取ることが重労働でした。
「何とかしろ!」という英国。「人手が無くて無理」と答えるアメリカ。
よしそれなら「人手」をつれてこよう・・・といって連れてきたのがアフリカからの奴隷でした。そしてアメリカ南部はぼろ儲けでしたが・・・
北部アメリカは、アメリカ合衆国の農業立国から産業立国の道を探っていました。英国の原料供給国では独立した意味が無いこtも事実。何とか産業化を達成しないと・・・
こうして国家の目的が北部と南部で異なってきます。戦争の火蓋を切ったのがリンカーン大統領。その大儀が「奴隷解放」だったことは有名ですね。1861年 - 1865年まで続きました。
ちなみに日本の大政奉還が1867年ですから、南北戦争の直後であることが判ります。これで日本も産業立国を目指しました。
南北戦争で北部が勝利し、奴隷は解放されました。ここから人種差別の国家になってしまったアメリカ合衆国。奴隷へのトラウマはこうして生まれたわけです。
歴史的に奴隷というものを知らない日本。この純真な民族がアメリカ合衆国に牙を向いて、戦いを挑み、その大儀を「アジア開放=大東亜戦争」としたことは有名ですが、この時アメリカ人の深層心理に「奴隷のトラウマ」があったことは隠しようがありません。
戦争に勝利したアメリカ。それでもこのトラウマからは逃げ出せませんでした。戦勝国なのに、なぜか日本に負い目があったわけです。
そこに持ち込まれた「韓国からの従軍慰安婦問題」。日本の反日政治家が認めたような従軍慰安婦。これを「性的奴隷」とすることで、アメリカはトラウマから脱することが出来ると考えたのでしょうか?
クリントン長官の巧みな謀略は、アメリカを奴隷トラウマから救うことだったのでしょうか?
歴史を見れば、どの国にも「奴隷」はあった。アメリカは人道的だった・・・と思いたいのかも知れませんね。
日本からすれば、あれは単なる売春婦。金を使って連れてきた業者を黙認し、衛生管理の面だけに気を配っていただけだったのに。
こんな証拠はいっぱいあるのですが、なにしろ反日政治家が変なことを言うものだからおかしくなるのです。
反日と言っても、謝罪金のペイバックがあったのでしょうけどね。
さて、玄葉光一郎外相はこのクリントン長官と会った時には、「最も効果的な方法で『違いますよ』と申し上げる」と述べているそうですが、その最も効果的方法とはなんでしょうか?
少なくとも、「河野談話」は嘘と否定してから行って欲しいものですね。
もともとコロンブスが新大陸を発見して、移民が渡るようになってから、アメリカ大陸を実質統治していたのはフランス系の移民達でした。
その後、英国のアングロサクソンがメイフラワー号で渡って来ましたが、先に実権を握っているフランス移民には敬意を払っていました。
英国の宿敵フランスですが、新大陸に欧州の因縁を持ち込みたくは無かったこともあったようです。
しかし、英国はこのアメリカに不当に高い物品税を掛けていましたから、アメリカの経済は一向に向上しませんでした。
そこで「茶器(ティーパーティ)」ということで、集まって「アメリカの独立」を画策した一派が登場します。
関税(輸入物品税)が一番高かったのが「お茶(紅茶)」でした。ティーパーティとは、このお茶の関税を問題にし、茶葉を使わず、コーヒーをお茶のようにして入れた飲み物で会合をやったとか。
ちなみにこれがコーヒー「アメリカン」の発祥になります。
堪忍袋の緒が切れたアメリカ移民。ついに英国艦船の焼き討ちを始めます。「ティーパーティ」に行こうという合言葉で、独立戦争が始まり、ついに1789年、アメリカは独立を達成しました。
この時、アメリカの独立派を助けたのがフランス国家でした。そこでアメリカのトウモロコシで作った蒸留酒につけた名前が「バーボンウイスキー」。助けてくれたフランスの王朝がブルボンだったことからこの名前が使われたそうですね。
これでアメリカは清教徒の純な国家が作れると思っていたのに、したたかなのは英国アングロサクソンです。
産業国家になっていた英国は、原料調達国としてのアメリカの利用を考えました。産業とは、蒸気機関によって動く紡績機械のこと。そして原料とは、インド綿の輸入です。
インド綿はアメリカ南部でも生産できましたから、それを輸入することにしました。アメリカ南部は潤います。しかし急激な輸入量の増加は、生産が追いつかない状況に。それでも調達を迫る英国。「これ以上は無理です」と言うアメリカ。インド綿は額が硬く、綿の部分を取ることが重労働でした。
「何とかしろ!」という英国。「人手が無くて無理」と答えるアメリカ。
よしそれなら「人手」をつれてこよう・・・といって連れてきたのがアフリカからの奴隷でした。そしてアメリカ南部はぼろ儲けでしたが・・・
北部アメリカは、アメリカ合衆国の農業立国から産業立国の道を探っていました。英国の原料供給国では独立した意味が無いこtも事実。何とか産業化を達成しないと・・・
こうして国家の目的が北部と南部で異なってきます。戦争の火蓋を切ったのがリンカーン大統領。その大儀が「奴隷解放」だったことは有名ですね。1861年 - 1865年まで続きました。
ちなみに日本の大政奉還が1867年ですから、南北戦争の直後であることが判ります。これで日本も産業立国を目指しました。
南北戦争で北部が勝利し、奴隷は解放されました。ここから人種差別の国家になってしまったアメリカ合衆国。奴隷へのトラウマはこうして生まれたわけです。
歴史的に奴隷というものを知らない日本。この純真な民族がアメリカ合衆国に牙を向いて、戦いを挑み、その大儀を「アジア開放=大東亜戦争」としたことは有名ですが、この時アメリカ人の深層心理に「奴隷のトラウマ」があったことは隠しようがありません。
戦争に勝利したアメリカ。それでもこのトラウマからは逃げ出せませんでした。戦勝国なのに、なぜか日本に負い目があったわけです。
そこに持ち込まれた「韓国からの従軍慰安婦問題」。日本の反日政治家が認めたような従軍慰安婦。これを「性的奴隷」とすることで、アメリカはトラウマから脱することが出来ると考えたのでしょうか?
クリントン長官の巧みな謀略は、アメリカを奴隷トラウマから救うことだったのでしょうか?
歴史を見れば、どの国にも「奴隷」はあった。アメリカは人道的だった・・・と思いたいのかも知れませんね。
日本からすれば、あれは単なる売春婦。金を使って連れてきた業者を黙認し、衛生管理の面だけに気を配っていただけだったのに。
こんな証拠はいっぱいあるのですが、なにしろ反日政治家が変なことを言うものだからおかしくなるのです。
反日と言っても、謝罪金のペイバックがあったのでしょうけどね。
さて、玄葉光一郎外相はこのクリントン長官と会った時には、「最も効果的な方法で『違いますよ』と申し上げる」と述べているそうですが、その最も効果的方法とはなんでしょうか?
少なくとも、「河野談話」は嘘と否定してから行って欲しいものですね。
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