2014年2月14日金曜日

小説「永遠のゼロ」を読んで (2)

百田尚樹氏の「永遠のゼロ」は、現実的(リアル)な戦争を表現しているようです。主人公「宮部久蔵」は、天才的戦闘機パイロットという設定ですが、武士(サムライ)の生き様として見る事も出来ます。

丁寧な言葉使いで、しかも「惻隠の情」を自然に持ち合わせ、戦闘機・セロ戦を武器としていかに扱うかを常に考えている兵法者です。
戦いに勝つことが生き残ることであり、自分の兵法の正当性を示すもの・・という考えで、「生きることを信条にしている」と描かれているのではないでしょうか?

宮本武蔵の小説も、このような思考を描いております。
「永遠のゼロ」では、宮部久蔵という生きることを信条としている男が、なぜ特攻に志願したか、それもあと一週間で戦争は終わったのに・・という点が最後までミステリーとなっているようですね。
「愛する妻と子供のため」などというセリフが出てきます。このフレーズは戦争経験者達が常に言っていた言葉です。我々は愛する者のために戦ったのだと・・・
また、多くの若者を死なせた責任のようなものを感じて、特攻に行ったという言い回しも出てきます。無責任に生き残った上層部を批判する意味で。
しかし、百田氏は主人公を通してまったく別の判断を描くのです。

多くの若者を特攻という外道で死に追いやりながら、直掩機として特攻に参加していた主人公は、そこで敵電探の弱点を見抜き、近接信管付の砲弾の弱点も見抜き、特攻のやり方を頭の中で組み立てたのでしょう。
それを確認するには、自らの技量を持って特攻を行うしかない。そういう結論に達した主人公は、妻と娘のために相応しい男を残して、自らその実戦に赴くという筋に取れます。(他の読者はどう捕らえているか知りませんけど)

タイコンデロガの搭乗員に、「悪魔の乗ったゼロ・ファイター」と言わせることで、この天才パイロットの勝利を示し、史実に忠実に小説をまとめました。

この小説は戦争を賛美するものではありませんが、戦争というものが何たるかは明確に示しています。それは戦闘者の技量のぶつかり合いであり、常に劣者が優者に勝利するチャンスもあるというように描かれています。(だから油断してはならないということです)
決して戦争の残虐性だけを、いたずらに強調してはおりません。

そしてエピローグで、タイコンデロガの搭乗員に「あいつはサムライだった。だから我々はナイトとして彼に対さなければならない」と語らせます。
つまり命のやり取りであればこそ、そうすることが自然になるという戦争の一面を描きます。

最近は戦争がなくなりました。あるのは紛争とテロばかりです。人心は欲に乱れ、惻隠の情も、人間としての扱いすら影が薄くなっています。
戦争の無い時代、しかしもっとおぞましい世界になりつつあるような、そんな予感も持ったりしています。
だからこそ、サムライとかクールジャパンを、アメリカも言い始めたのではないでしょうか。

小説では、大東亜戦争の末期を、無謀で邪道な戦いを続ける帝国陸海軍を暗に非難しています。そしてその中で、一人の天才パイロットが持てる技量のすべてを使い切って散華するまでを描きます。邪道ではない特攻です。ここに作家の言いたい「大日本帝国陸海軍司令部への強烈な非難」が見て取れます。

どんなに兵器の性能が上がっても、それを使いこなすのは人間であること。軍の迷いなき指揮系統、各軍人のたゆまざる訓練、そして人間としての感性に優れなければ、どんなハイテク兵器も平和をもたらしません。
ハイテクであればあるほど、その運用、維持管理能力が必要となり、それにもこのような原則が必要になるからです。
小説でも整備兵の話が出てきますが、このすべてを歴史的名機「ゼロ戦」と、宮部久蔵という魂をもって描いた小説・・だから「永遠のゼロ」なのでしょうね。

この小説がベストセラーを続けています。まだ日本にもこのようなことが解る国民が大勢居るということでしょうか?
少しだけ勇気が出てきますね・・・

ついでですが、あの名機の日本名称は「零戦(れいせん)」です。それをアメリカが「ゼロ・ファイター」と呼び、それが再翻訳で「ゼロ戦」と呼ばれるようになったとか。
まあ、どうでもいいことですけど。

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