FabLab(ファブラボ)という流れが、アメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)のニール・ガーシェンフェルド教授の提唱によって2001年から始まりました。(これは以前に書きましたね)
オープン・ファブリケーションとして、公開型で工作機械を設置し、誰でもそこで「物作り」が出来るようにしようという発想でした。
同調者が広がって、いまでは世界中にFabLabが出来ています。日本でも鎌倉や渋谷で活躍しています。
蒸気機関の発明から始まった産業革命は、「物作り」の為の施設、即ち工場を莫大なお金を掛けて作り、そのお金以上の莫大な富をもたらしました。
そして作り上げる工場の資本を、民間資本で行うか国家資本で行うかが議論され、資本主義体制と社会主義体制が出来上がり、その2大派閥が世界を二分し、核ミサイルまで持ち出して対立していたのは記憶に新しいところですね。
「民間資本だと、資本が集中し、やがて貧富差が開いて社会が成り立たなくなる」というマルクスの発想が生み出した社会主義体制は、技術のイノベーションによる変化の中で失速しました。
社会主義の無くなった世界で、資本主義は莫大な金利を求めて現在は漂流中のようです。
この様な社会の中で、少し昔から日曜大工のお店などでも、旋盤やボール盤、丸鋸などが買えるようになってきました。
以前は巨大資本が投資対象として考えていた工作機械の価格が、中古も含めて極端に低下してきたと言えるでしょう。
しかしそれでもこれらの工作機械は、技能的に訓練された人(職人など)しか扱えないものでした。
そこにデジタル技術が加わって、ある程度の精度の物なら職能訓練された人でなくても作れるようになってきたわけです。
パソコン(のようなもの)に数値を入れれば、あとは工作機械が自動的に作業してくれるわけです。
20世紀の終わりごろからこの流れが始まり、ゆえに発展途上国に生産拠点が移って、先進国不況が始まりました。衰退する先進国と、勢いづく途上国という構図です。
デジタル化した工作機械は、熟練工を必要としません。「安い人件費で同等の精度の製品が作れれば安く物が作れて売れる」という資本家の安易な発想がこの流れを生み出し、挙句に「工場のグローバル化」とか「ファブレス・マニファクチャリング」などと叫び始めたのもこの頃のことです。
しかし、「物作り」とはステレオタイプ(量産品)を作ることではなく、「プロトタイプ(工夫して作る最初の一つ)を作ることなんだ」という発想が出てきたのが、この「ニール・ガーシェンフェルド教授の提唱」だったわけです。
ちょうど「唄や音楽は作曲や作詞が最も大切な部分で、録音やメディア(資本を必要とする部分)はそれの寄生物に過ぎない」と言っているようなものです。
工作機械(生産設備)が安くなり、デジタル化によって職能訓練されなくてもある程度の精度が出せること、そしてパソコンで使える無料化したCADのシステムで、ダウンロードして絵を書けば誰でも使える工作機械(3Dプリンタのような)が出始め、もはや資本の集約で量産する工場の必要性がなくなりつつあります。
民間資本だとか国家資本などというのは、まったく無意味になるわけです。
FabLabをビジネス化したお店が「TechShop」です。広い体育館のような建物にデジタル工作機械を並べて、会員(有料)になれば誰でも自由に使うことが出来るようにしたお店です。
さまざまな人が集まるために情報交換が出来て、また、人の作っている物を見て啓蒙されたりもするようです。
昔は酒場などで仲間と世間話をしていた人が、ここ(TechShop)の方が楽しいと言うようになったとか。まあこれは広い国のお話のようで、日本ではまた異なるアプローチのTechShopが考えられそうですけどね。
http://www.dobatty.com/2013/02/diytechshop.html
http://fab.sfc.keio.ac.jp/etc/tdw_axis.pdf
デジタル化したこのような工作機械は、量産用でなくともいいわけですから、「1分間にいくつできる」などという生産性は無意味なわけです。
ただし使いやすくないとダメでしょう。工作機械もその作りかたが変わって来るでしょうね。
TechShopの工作機械を使って、もっと便利な工作機械を作ることも出来ます。このような進化も楽しめるのがこのFabLabの魅力でもあるようです。
作ったものをネット上で公開すれば、欲しいと言うお客さんも付くかもしれません。交渉で価格を決めればビジネス化は可能です。しかし量産して儲けることは止めた方が良いようです。それは旧来のビジネスに戻る、いわば先祖帰りになってしまうからです。そして時代は、もうその方法はリスクが大きく(大量の不良在庫と安売り)危険な商行為になっていると思います。
新しいデジタル工作機械は、量産型の機械ではありませんからね。
同調者が広がって、いまでは世界中にFabLabが出来ています。日本でも鎌倉や渋谷で活躍しています。
蒸気機関の発明から始まった産業革命は、「物作り」の為の施設、即ち工場を莫大なお金を掛けて作り、そのお金以上の莫大な富をもたらしました。
そして作り上げる工場の資本を、民間資本で行うか国家資本で行うかが議論され、資本主義体制と社会主義体制が出来上がり、その2大派閥が世界を二分し、核ミサイルまで持ち出して対立していたのは記憶に新しいところですね。
「民間資本だと、資本が集中し、やがて貧富差が開いて社会が成り立たなくなる」というマルクスの発想が生み出した社会主義体制は、技術のイノベーションによる変化の中で失速しました。
社会主義の無くなった世界で、資本主義は莫大な金利を求めて現在は漂流中のようです。
この様な社会の中で、少し昔から日曜大工のお店などでも、旋盤やボール盤、丸鋸などが買えるようになってきました。
以前は巨大資本が投資対象として考えていた工作機械の価格が、中古も含めて極端に低下してきたと言えるでしょう。
しかしそれでもこれらの工作機械は、技能的に訓練された人(職人など)しか扱えないものでした。
そこにデジタル技術が加わって、ある程度の精度の物なら職能訓練された人でなくても作れるようになってきたわけです。
パソコン(のようなもの)に数値を入れれば、あとは工作機械が自動的に作業してくれるわけです。
20世紀の終わりごろからこの流れが始まり、ゆえに発展途上国に生産拠点が移って、先進国不況が始まりました。衰退する先進国と、勢いづく途上国という構図です。
デジタル化した工作機械は、熟練工を必要としません。「安い人件費で同等の精度の製品が作れれば安く物が作れて売れる」という資本家の安易な発想がこの流れを生み出し、挙句に「工場のグローバル化」とか「ファブレス・マニファクチャリング」などと叫び始めたのもこの頃のことです。
しかし、「物作り」とはステレオタイプ(量産品)を作ることではなく、「プロトタイプ(工夫して作る最初の一つ)を作ることなんだ」という発想が出てきたのが、この「ニール・ガーシェンフェルド教授の提唱」だったわけです。
ちょうど「唄や音楽は作曲や作詞が最も大切な部分で、録音やメディア(資本を必要とする部分)はそれの寄生物に過ぎない」と言っているようなものです。
工作機械(生産設備)が安くなり、デジタル化によって職能訓練されなくてもある程度の精度が出せること、そしてパソコンで使える無料化したCADのシステムで、ダウンロードして絵を書けば誰でも使える工作機械(3Dプリンタのような)が出始め、もはや資本の集約で量産する工場の必要性がなくなりつつあります。
民間資本だとか国家資本などというのは、まったく無意味になるわけです。
FabLabをビジネス化したお店が「TechShop」です。広い体育館のような建物にデジタル工作機械を並べて、会員(有料)になれば誰でも自由に使うことが出来るようにしたお店です。
さまざまな人が集まるために情報交換が出来て、また、人の作っている物を見て啓蒙されたりもするようです。
昔は酒場などで仲間と世間話をしていた人が、ここ(TechShop)の方が楽しいと言うようになったとか。まあこれは広い国のお話のようで、日本ではまた異なるアプローチのTechShopが考えられそうですけどね。
http://www.dobatty.com/2013/02/diytechshop.html
http://fab.sfc.keio.ac.jp/etc/tdw_axis.pdf
デジタル化したこのような工作機械は、量産用でなくともいいわけですから、「1分間にいくつできる」などという生産性は無意味なわけです。
ただし使いやすくないとダメでしょう。工作機械もその作りかたが変わって来るでしょうね。
TechShopの工作機械を使って、もっと便利な工作機械を作ることも出来ます。このような進化も楽しめるのがこのFabLabの魅力でもあるようです。
作ったものをネット上で公開すれば、欲しいと言うお客さんも付くかもしれません。交渉で価格を決めればビジネス化は可能です。しかし量産して儲けることは止めた方が良いようです。それは旧来のビジネスに戻る、いわば先祖帰りになってしまうからです。そして時代は、もうその方法はリスクが大きく(大量の不良在庫と安売り)危険な商行為になっていると思います。
新しいデジタル工作機械は、量産型の機械ではありませんからね。
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