世界遺産になれなかった日本の遺産、「平泉・中尊寺」。
今年の5月頃から、再挑戦の活動が始まっていました。大震災の影響もあって、世界中の目が日本の東北方面に向けられていましたし、息消沈する東北に活力を入れるためにも、この再挑戦が必要だったのかも知れません。
前回、選に漏れた理由を検討します。ユネスコの国際記念物遺跡会議(イコモス)が言ったことは、「浄土思想と個々の構成資産との関係が不明確」ということでした。
そこで今回は、その関係が明確になるように遺跡を絞って申請したことが功を奏したとか。
ただし、世界遺産として認められた背景には、大震災からの立ち直りという大儀が、ユネスコを動かしたことが大きいのではないかとも思いますけど。
奥州藤原氏とは、京都の藤原鎌足から始まる藤原氏とは遠縁の藤原氏です。
もともと奥州は、東北の豪族であった清原氏が統治する場所。そこがなぜ藤原氏になったのか・・・
京都・藤原氏の末裔である秀郷流の藤原氏。その藤原経清が亡くなった時(頼義に斬首された)、その後家さんが再婚した先が東北の清原武貞氏。決して本人の意思ではないでしょう。政略結婚こそが全ての時代です。
その連れ子が若き藤原清衡です。政略結婚ですから姓は清原に変えられ、冷遇されていたことは確か。
この冷遇の中で清原清衡は、3年間のごたごた(後3年の役)に巻き込まれます。清衡はここで頭角を現し、この争いを収めてしまいます。傍系の藤原氏といえども政治(=戦争)能力は抜群だったようですね。
平定してから苗字を再び藤原に戻し、藤原清衡として奥州全土の平定に乗り出します。これが奥州の覇者と言われる所以です。
そのころ、京都は平家が源家に追い詰められ、乗っ取られてしまいました。平清盛の夢、京都に極楽浄土の平和な街を築くという夢は頓挫します。
勝った源の頼朝は実務派の軍人。弟の義経が追っ払われて藤原清衡の孫・秀衡を頼りに東北へ向かったのは、秀衡が京都の情報を欲して呼んだからでしょうか。
清衡は清盛の夢を奥州で再現しようとしたのでしょうか。4代に渡ってその夢が実現されます。
財源は東北地方で大量に取れた砂金。
税金ではなかったから4代持ちこたえたのでしょう。
清衡は仏教精神に熱い人。浄土信仰を持っていたのでしょうか、黄金の都市づくりを始めたかったようです。最初に作ったのが中尊寺で、都市計画のモデルとしてか、金色堂に理想の都市モデルを表現します。
その後、中尊寺に現れた経蔵別当「自在坊 蓮光」という僧侶が、藤原清衡の都市計画をアドバイスし、さまざまな仏教施設を建設していったとか。
ユネスコという国際団体が、このような仏教思想を理解できたのでしょうか?
はたしてこの世界遺産は、世界中から観光客を集め、復興の支えになるでしょうか?
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