8月8日の午後3時に、天皇陛下のビデオメッセージが流されました。
82歳になられた平成の陛下の、ご自分のお気持ちとして、全国民に向けて出されたメッセージであります。
昭和の陛下が崩御されてから、平成の陛下がご即位されました。平成の陛下がお生まれになられたのは昭和8年ですから、ご即位されたのは56歳の時でありました。
その後、国民統合の象徴として、また皇室外交の担い手としてその重責を果たしてこられました。
皇太子殿下徳仁親王も現在56歳、平成の陛下が即位された年と同じ年齢となられました。陛下は即位後の自分の苦労を鑑み、もしその年齢以上になると、ご公務継承の苦労が一段と厳しくなることを気に留めておられるのではないでしょうか。
平成と言う時代は、我が国を直接巻き込む戦争こそありませんでしたが、何度も大震災に見舞われたり、台風などの天災も多くあったかと思います。
また、昭和の時代の戦いで心なくも外地で亡くなった英霊たちの慰霊鎮魂の御旅行は、硫黄島、サイパン、パラオ、フィリピンなど多国にわたり、そしてそれもひと段落ついたようで、あとは次代の皇室、そして国民に任せて大丈夫とのご判断をなされたのかも知れません。
現在の日本は「立憲君主制」となっていますから、天皇陛下は憲法に基づいてその地位が決められていますが、その憲法がGHQによって作られたものであり、我が国の歴史にマッチしていない感じもいたします。
もちろんGHQに対して日本側は、天皇の問題を第一義に交渉していましたから、何とか「我が国体」は守られたようです。
しかし、GHQは宮家解体に動き、12あった宮家をすべて皇籍離脱させようとしてきました。そして11の宮家が功績を失ったのです。皇籍を失った宮家は、「山階宮(やましなのみや)」「賀陽宮(かやのみや)」「久邇宮(くにのみや)」「梨本宮(なしもとのみや)」「朝霞宮(あさかのみや)」「東久邇宮(ひがしくにのみや)」「竹田宮(たけだのみや)」「北白川宮(きたしらかわのみや)」「伏見宮(ふしみのみや)」「閑院宮(かんいんのみや)」「東伏見宮(ひがしふしみのみや)」の11宮家です。
三笠宮(みかさのみや)家だけは残されました。昭和の陛下の弟さんでしたからでしょうか。皇位継承第5位として、現在は100歳となられました。
その後、3つの宮家が新しく誕生しました。それが「秋篠宮(1990年)、常陸宮(1964年)、高円宮(1984年)」なのです。
昭和の陛下は、これでは男子継承が困難になることを知っておられ、皇籍離脱の11宮家に対して「それでも男子継承を続けるように」ご下命なされたと聞きます。
そしてこれを契機として、皇室に伝統的にあった宮家からの嫁取りを止めることをご決断されたのかも知れません。宮内庁の大反対を押し切って、皇太子殿下に民間から皇太子妃を迎えられたのです。
それが現在の「日本の母」とも慕われておられる皇后陛下です。
美知子妃殿下の高貴な美しさ、聡明さ、そして心に秘めた覚悟の強さに、日本国内に蔓延っていた「天皇制廃棄」のサヨク活動家たちも息をのみ、そして黙ってしまいました。
軽井沢のテニスコートで皇太子殿下と恋が生まれ、そしてそれが成就されたという、いかにも欧米が喜びそうな逸話が残されましたが、その背後で昭和の陛下の「日本を守るための、たった一人の戦い」が続けられていたのかも知れません。
平成の陛下の「生前退位」とも取れる「お気持ち」に対し、安倍首相は「このお言葉を重く受け止め、・・・今後どのようなことができるのかしっかり考えていかなければならないと思います。」
と述べられました。
現在の日本国憲法は、第二条に「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範 の定めるところにより、これを継承する。」となっており、皇室典範には第一章に皇位継承が定められていて、その第一条に「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」となっています。そして第四条に「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。」となっていて、「生前退位」などと言う言葉は出てきません。
ですから憲法改正ならば第二条の改正になるわけですが、わざわざ皇室典範に準ずるとしてあるのですから皇室典範の改定が筋でしょう。
これは国会で議決すれば可能になるわけです。
さて、皇室典範の改正で「生前退位」がなされたとして、その後、平成の陛下はどうなさるのでしょうか。
「ゆっくりとお過ごしください」と言うのが国民の多くの声かも知れませんが、もしかしたら退位の後「旧宮家復活」の戦いをお始めになるかもしれません。
旧宮家の中で男子の居る方々を再び宮家として再興するお考えなのでは。
昭和の陛下がついに果たせなかった仕事を、平成の陛下が残された命のすべてをかけて試みる、そんな「たった一人の戦い」が始まるのかもしれません。
昭和の陛下の背中を見て育った平成の陛下なのですから・・・
昭和の陛下が崩御されてから、平成の陛下がご即位されました。平成の陛下がお生まれになられたのは昭和8年ですから、ご即位されたのは56歳の時でありました。
その後、国民統合の象徴として、また皇室外交の担い手としてその重責を果たしてこられました。
皇太子殿下徳仁親王も現在56歳、平成の陛下が即位された年と同じ年齢となられました。陛下は即位後の自分の苦労を鑑み、もしその年齢以上になると、ご公務継承の苦労が一段と厳しくなることを気に留めておられるのではないでしょうか。
平成と言う時代は、我が国を直接巻き込む戦争こそありませんでしたが、何度も大震災に見舞われたり、台風などの天災も多くあったかと思います。
また、昭和の時代の戦いで心なくも外地で亡くなった英霊たちの慰霊鎮魂の御旅行は、硫黄島、サイパン、パラオ、フィリピンなど多国にわたり、そしてそれもひと段落ついたようで、あとは次代の皇室、そして国民に任せて大丈夫とのご判断をなされたのかも知れません。
現在の日本は「立憲君主制」となっていますから、天皇陛下は憲法に基づいてその地位が決められていますが、その憲法がGHQによって作られたものであり、我が国の歴史にマッチしていない感じもいたします。
もちろんGHQに対して日本側は、天皇の問題を第一義に交渉していましたから、何とか「我が国体」は守られたようです。
しかし、GHQは宮家解体に動き、12あった宮家をすべて皇籍離脱させようとしてきました。そして11の宮家が功績を失ったのです。皇籍を失った宮家は、「山階宮(やましなのみや)」「賀陽宮(かやのみや)」「久邇宮(くにのみや)」「梨本宮(なしもとのみや)」「朝霞宮(あさかのみや)」「東久邇宮(ひがしくにのみや)」「竹田宮(たけだのみや)」「北白川宮(きたしらかわのみや)」「伏見宮(ふしみのみや)」「閑院宮(かんいんのみや)」「東伏見宮(ひがしふしみのみや)」の11宮家です。
三笠宮(みかさのみや)家だけは残されました。昭和の陛下の弟さんでしたからでしょうか。皇位継承第5位として、現在は100歳となられました。
その後、3つの宮家が新しく誕生しました。それが「秋篠宮(1990年)、常陸宮(1964年)、高円宮(1984年)」なのです。
昭和の陛下は、これでは男子継承が困難になることを知っておられ、皇籍離脱の11宮家に対して「それでも男子継承を続けるように」ご下命なされたと聞きます。
そしてこれを契機として、皇室に伝統的にあった宮家からの嫁取りを止めることをご決断されたのかも知れません。宮内庁の大反対を押し切って、皇太子殿下に民間から皇太子妃を迎えられたのです。
それが現在の「日本の母」とも慕われておられる皇后陛下です。
美知子妃殿下の高貴な美しさ、聡明さ、そして心に秘めた覚悟の強さに、日本国内に蔓延っていた「天皇制廃棄」のサヨク活動家たちも息をのみ、そして黙ってしまいました。
軽井沢のテニスコートで皇太子殿下と恋が生まれ、そしてそれが成就されたという、いかにも欧米が喜びそうな逸話が残されましたが、その背後で昭和の陛下の「日本を守るための、たった一人の戦い」が続けられていたのかも知れません。
平成の陛下の「生前退位」とも取れる「お気持ち」に対し、安倍首相は「このお言葉を重く受け止め、・・・今後どのようなことができるのかしっかり考えていかなければならないと思います。」
と述べられました。
現在の日本国憲法は、第二条に「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範 の定めるところにより、これを継承する。」となっており、皇室典範には第一章に皇位継承が定められていて、その第一条に「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」となっています。そして第四条に「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。」となっていて、「生前退位」などと言う言葉は出てきません。
ですから憲法改正ならば第二条の改正になるわけですが、わざわざ皇室典範に準ずるとしてあるのですから皇室典範の改定が筋でしょう。
これは国会で議決すれば可能になるわけです。
さて、皇室典範の改正で「生前退位」がなされたとして、その後、平成の陛下はどうなさるのでしょうか。
「ゆっくりとお過ごしください」と言うのが国民の多くの声かも知れませんが、もしかしたら退位の後「旧宮家復活」の戦いをお始めになるかもしれません。
旧宮家の中で男子の居る方々を再び宮家として再興するお考えなのでは。
昭和の陛下がついに果たせなかった仕事を、平成の陛下が残された命のすべてをかけて試みる、そんな「たった一人の戦い」が始まるのかもしれません。
昭和の陛下の背中を見て育った平成の陛下なのですから・・・
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