昨日2月26日は、2・26事件から80年目に当たる日でした。
昭和11年2月26日、長いデフレに陥った日本経済が高橋是清蔵相の見事な経済政策で立ち直りかけていた頃のことです。
昨日は朝から晴れておりましたが、その日は雪が積もっていたそうです。
1400名以上の下士官兵が動員された大規模なクーデターですが、参加した兵卒は「訓練」だと思っていた人も多かったようです。
長引いた不況にアメリカ発の世界恐慌までが加わり、そこに東北の冷害と三陸沖大地震(昭和8年)が加わって、娘などが身売りをしなければならなくなった最悪の日本でした。(この時代には売春防止法はありませんでした)
誰言うとなく世間に広がった「政府が悪い」という風潮は、次第に具体的な要人の名前までが取りざたされるようになり、経済という学問が未熟な世間で、不況のうっ憤が政府に向けられていたのは確かです。
妹が身売りしたなどという事態に、軍内部でも憤慨が広がり、そしてついに「陛下の側近に私腹を肥やしているやつが居る」ということになって、その名前が挙げられ、村中孝次、磯部浅一、安藤輝三、栗原安秀、香田清貞、北一輝、西田税、などが立ち上がったわけです。
もっともこのような軍部内のうっ憤を利用して、軍部内の派閥抗争が動いたことも事実で、このクーデター未遂事件以降、軍部独裁的な体制へと変わって行くわけです。
クーデターの収束に協力したのは、「皇道派」だった真崎甚三郎陸軍大臣などです。彼は決起した皇道派の青年将校たちの主張に沿った形での収束を計ったのですが、昭和天皇の怒りを買ってしまいます。真崎氏は事件後の軍法会議で無罪となっています。
思想的背景に北一輝が挙げられますが、北一輝の「日本改造法案大網」はレーニンの真似であり、国家社会主義を目指したものとの評価もあるようです。北一輝も事件後処刑されました。
このクーデター未遂事件では、松尾伝蔵、高橋是清、斎藤実、渡辺錠太郎といった重鎮が殺害されました。特に高橋是清氏はデフレ脱却に向けて激しいインフレ政策を取り、世界恐慌から日本を真っ先に脱却させた人でした。
しかし、それが国中に行き渡る前にインフレの兆候が表れ、インフレ策を止める時に軍部の予算を削ったことから、軍部内に敵対する勢力を作ってしまったのです。
1週間ほど続いたこのクーデターに終止符を打ったのは昭和天皇でした。「朕が股肱の老臣を殺戮する者に許しは必要ない。朕自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たる!」とまで仰ったのですから、これで決起青年将校たちは逆賊となったわけです。
●下士官兵に告ぐ
1.今からでも遅くないから原隊へ帰れ
2.抵抗するものは全部逆賊であるから射殺する
3.お前たちの父母兄弟は逆賊になるので皆泣いておるぞ
2月29日 戒厳令司令部
もともと陛下を逆賊から守るための決起であった青年将校たちは、陛下の怒りを買ってしまったことに気が付きます。
昭和11年3月4日、このクーデター事件は未遂に収束しました。
首謀者の青年将校たちは、拳銃自殺したり、逮捕後裁判を経て処刑されたり、また多くの原隊に戻った兵卒は、そうとう上官から辛く当たられたようです。
この事件で海軍と陸軍の軋轢が決定的となります。襲撃され殺された者に海軍関係者が多かったため、陸軍に対する海軍の不信を生んだからです。
そしてこれがその後の大東亜戦争に深く影響を与えていることは、あの真珠湾攻撃のことが東条首相に事前に伝えられていなかったことからも伺えますね。
もしかしたら、このことが大東亜戦争敗戦へつながったのかも知れません。陸軍の首相に勝たせたくない海軍の不信です。
戦争を作るのは常に出口の見えない長引くデフレです。犯人捜しが始まり、やがてそれが対立を生み軍事衝突に至るわけです。
2・26事件もそうでした。そしてやがて世界大戦への道とつながって行くわけです。高橋是清蔵相によって日本だけがデフレ脱却しそうでしたが、先にヒットラーによってデフレ脱却を果たし、そのままバブル経済に踊ったドイツもまた膨張経済と軍事的進出を止められませんでした。現在の中共も同じように見えます。
2・26事件の背景も長期デフレだったようです。現在も似たような犯人探しが行われています。国会を見ていても奇妙な犯人探しやイジメに似た制裁などが野党の議員達によって行われています。
しかし2・26事件と異なるのは、そこに命がけでの行動が見られないことです。選挙戦だけしか頭にない野党の低迷は国民の負託に答えていません。
決起した青年将校たちの助命懇願が事件の後に国民の間で起きていたと聞きます。命がけであれば聞く耳を持つ日本国民なのです。
あの時日本は貧しかった。しかし国民すべてが国家の存続を願っていました。
国家存続の為に戦い(政治闘争も含む)死ぬことは、当たり前の名誉でした。そして国家とは天皇陛下と同義語だったのです。
野党議員やサヨクの活動家も、もう少し訴え方を考えてほしいですね。
昨日は朝から晴れておりましたが、その日は雪が積もっていたそうです。
1400名以上の下士官兵が動員された大規模なクーデターですが、参加した兵卒は「訓練」だと思っていた人も多かったようです。
長引いた不況にアメリカ発の世界恐慌までが加わり、そこに東北の冷害と三陸沖大地震(昭和8年)が加わって、娘などが身売りをしなければならなくなった最悪の日本でした。(この時代には売春防止法はありませんでした)
誰言うとなく世間に広がった「政府が悪い」という風潮は、次第に具体的な要人の名前までが取りざたされるようになり、経済という学問が未熟な世間で、不況のうっ憤が政府に向けられていたのは確かです。
妹が身売りしたなどという事態に、軍内部でも憤慨が広がり、そしてついに「陛下の側近に私腹を肥やしているやつが居る」ということになって、その名前が挙げられ、村中孝次、磯部浅一、安藤輝三、栗原安秀、香田清貞、北一輝、西田税、などが立ち上がったわけです。
もっともこのような軍部内のうっ憤を利用して、軍部内の派閥抗争が動いたことも事実で、このクーデター未遂事件以降、軍部独裁的な体制へと変わって行くわけです。
クーデターの収束に協力したのは、「皇道派」だった真崎甚三郎陸軍大臣などです。彼は決起した皇道派の青年将校たちの主張に沿った形での収束を計ったのですが、昭和天皇の怒りを買ってしまいます。真崎氏は事件後の軍法会議で無罪となっています。
思想的背景に北一輝が挙げられますが、北一輝の「日本改造法案大網」はレーニンの真似であり、国家社会主義を目指したものとの評価もあるようです。北一輝も事件後処刑されました。
このクーデター未遂事件では、松尾伝蔵、高橋是清、斎藤実、渡辺錠太郎といった重鎮が殺害されました。特に高橋是清氏はデフレ脱却に向けて激しいインフレ政策を取り、世界恐慌から日本を真っ先に脱却させた人でした。
しかし、それが国中に行き渡る前にインフレの兆候が表れ、インフレ策を止める時に軍部の予算を削ったことから、軍部内に敵対する勢力を作ってしまったのです。
1週間ほど続いたこのクーデターに終止符を打ったのは昭和天皇でした。「朕が股肱の老臣を殺戮する者に許しは必要ない。朕自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たる!」とまで仰ったのですから、これで決起青年将校たちは逆賊となったわけです。
●下士官兵に告ぐ
1.今からでも遅くないから原隊へ帰れ
2.抵抗するものは全部逆賊であるから射殺する
3.お前たちの父母兄弟は逆賊になるので皆泣いておるぞ
2月29日 戒厳令司令部
もともと陛下を逆賊から守るための決起であった青年将校たちは、陛下の怒りを買ってしまったことに気が付きます。
昭和11年3月4日、このクーデター事件は未遂に収束しました。
首謀者の青年将校たちは、拳銃自殺したり、逮捕後裁判を経て処刑されたり、また多くの原隊に戻った兵卒は、そうとう上官から辛く当たられたようです。
この事件で海軍と陸軍の軋轢が決定的となります。襲撃され殺された者に海軍関係者が多かったため、陸軍に対する海軍の不信を生んだからです。
そしてこれがその後の大東亜戦争に深く影響を与えていることは、あの真珠湾攻撃のことが東条首相に事前に伝えられていなかったことからも伺えますね。
もしかしたら、このことが大東亜戦争敗戦へつながったのかも知れません。陸軍の首相に勝たせたくない海軍の不信です。
戦争を作るのは常に出口の見えない長引くデフレです。犯人捜しが始まり、やがてそれが対立を生み軍事衝突に至るわけです。
2・26事件もそうでした。そしてやがて世界大戦への道とつながって行くわけです。高橋是清蔵相によって日本だけがデフレ脱却しそうでしたが、先にヒットラーによってデフレ脱却を果たし、そのままバブル経済に踊ったドイツもまた膨張経済と軍事的進出を止められませんでした。現在の中共も同じように見えます。
2・26事件の背景も長期デフレだったようです。現在も似たような犯人探しが行われています。国会を見ていても奇妙な犯人探しやイジメに似た制裁などが野党の議員達によって行われています。
しかし2・26事件と異なるのは、そこに命がけでの行動が見られないことです。選挙戦だけしか頭にない野党の低迷は国民の負託に答えていません。
決起した青年将校たちの助命懇願が事件の後に国民の間で起きていたと聞きます。命がけであれば聞く耳を持つ日本国民なのです。
あの時日本は貧しかった。しかし国民すべてが国家の存続を願っていました。
国家存続の為に戦い(政治闘争も含む)死ぬことは、当たり前の名誉でした。そして国家とは天皇陛下と同義語だったのです。
野党議員やサヨクの活動家も、もう少し訴え方を考えてほしいですね。
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