ちょっと時間が経ちましたが、2月11日は建国記念日でした。各地で記念行事が行われたようですが、最近は建国記念日の意味が解らない人が増えているとか。
昔は「紀元節」と呼んでいましたが、敗戦後GHQの顔色を窺って「建国記念日」にしたと言うことです。それもサンフランシスコ条約が締結されてからだいぶ経った1967年の2月11日から「建国記念日」として国民の祝日になったそうですね。
2月11日が日本の国が出来た日になったのは、「日本書紀」の記述にあった「神武天皇即位の日」であるからだそうです。
今から2676年前の出来事です。
では、なぜ神武天皇がこの年のこの日に日本建国を決めたのか、その記述はありません。ただ、神武天皇の就任に当たっての御言葉が残っているようです。
神武天皇は国家建設に当たって、東征(東方征伐)を行い6年を経て日本国建国に就いたようです。
「東征についてから6年になった。天津神の威勢のお蔭で凶徒は退治された。」という言葉で始まる就任の御言葉は、「今、世の中はまだ開けていないが、民の心は素直である。人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開の慣わしが変わらずにある。」と述べられ、さらに「山林を開き払い、宮室を造って謹んで尊い位につき、人々を安ずべきである。」と計画され、「その後国中を一つにして都を開き、天の下を覆いて一つの家とする事は、また良い事ではないか。」とされ、日本国が始まったということです。
この御言葉が、明治になって「田中智学」という日蓮宗国柱会の学者により「八紘一宇」という4文字熟語にまとめられ、日本の戦略の基本とされました。
この「八紘一宇」の意味として、「世界中の人々が一つ屋根の基にある兄弟のように平和に暮らすこと」と解する人も居りますが、私は「世界中の人々が屋根のある生活が出来るようにすること」と解釈します。
当時は屋根のある家に住むのは最高の技術を使った生活様式ではなかったでしょうか。「最高の技術をすべての人に与えよう」という思想だとすると、この八紘一宇の元に戦った大東亜戦争の意味もよく判りますし、現在のODA(政府開発援助)も、この八紘一宇が基本となっていることになるでしょう。
このようにして始まった我が国の歴史です。
ではなぜ神武天皇は国家建設をこの時考えたのか、それについて、いまから2600年前にヨーロッパで古代エジプトが消滅していることと関係ないでしょうか?
メソポタミヤ文明なども滅亡していますが、3000年くらい前からヨーロッパでは盛んに国家が出来たり戦争をしたりする時代になってきています。
北方からヘブライの文明が入って来たからではないでしょうか。ヘブライは一神教です。多神教で穏やかな農業生活を営んでいた国家は、次第にヘブライの文明に押し流され、危機感を抱いたグループが東へ移住していったのではないでしょうか。
麦の農業技術者が、東アジアで米を知り、米の水耕栽培を確立しながら、水のふんだんにある土地を求めて日本列島にたどり着いたという、そんな推理を考えました。
古代エジプトには「ラー神」という太陽の神が居ましたから、そのシンボルが日の丸の原型なのかも知れません。
「天皇」の発想が「ファラオ」の発想と同じではないかとも考えたのです。ファラオを「王家」と称するのはヘブライの発想です。ヘブライの文化ではファラオを説明できないのです。同じように、「天皇」をヘブライ系の文化で説明することが出来ません。
GHQも最後まで天皇を理解できませんでした。敗戦国の王は国民によって処刑されるとの思いで、戦後の巡幸を許可したGHQは、各地で大歓迎される昭和天皇を見て、それでも理解が出来なかったと言います。
神武天皇から現在までの時間軸の、ちょうど真ん中当たりに登場するのが「聖徳太子」です。自らを「厩戸の皇子」と名乗った大使は、実在の人物ではなく、蘇我入鹿とそのチームだったのではないかと思います。蘇我氏は外来の氏(うじ)で、物部が日本の伝統を継承する氏だったとも記されています。
もしかしたら、古代エジプトのシステムに対してヘブライが後を追っかけて日本に来ていたのかも知れませんね。「厩戸の皇子」がイエス・キリストをイメージさせることから、ローマ帝国の文化も含まれていただろうと想像するわけです。
聖徳太子が「7人の言うことを同時に聞き分けた」とは、ヘブライ系の言語(7か国語)を理解できたことを意味しているのかも知れません。
17カ条の憲法は、十戒をイメージさせます。 「和をもって貴しとなす」という意味が、議会制民主主義を示していたと考えれば、民主国家・日本はこの時に出来たとも言えるのではないでしょうか。
そしてこの時に行われたことが、天皇を政治の実権から切り離し、政治は公家が行うという取り決めです。天皇が「王」ではなく、ファラオの流れであることがこの新しいシステムを容易に実現出来たということではないでしょうか。
こうして公家のシステムは「飛鳥」「奈良」「平安」と500年近く続くわけです。しかし公家の既得権が貧富差を拡大してしまい、平家という軍人がのさばってしまったことで崩壊します。
「鎌倉」時代から政治の実権は武家が握り、「室町時代」から「戦国の世」となり、「安土桃山」にて日本の近世が始まるわけです。
そして「江戸時代」まで、我が国はそれほど外国の干渉を受けることなく、おそらく古代エジプトとヘブライの文化を意識しないで独自の文化を培ってきました。
天皇システムは、間違いなく今から2676年前から始まったのでしょう。
あと24年で、紀元2700年になるわけです。その時、八紘一宇という日本の世界戦略が今よりも進展し、世界がヘブライの弊害(略奪資本主義)から脱却していることを望むのですけど・・・
2月11日が日本の国が出来た日になったのは、「日本書紀」の記述にあった「神武天皇即位の日」であるからだそうです。
今から2676年前の出来事です。
では、なぜ神武天皇がこの年のこの日に日本建国を決めたのか、その記述はありません。ただ、神武天皇の就任に当たっての御言葉が残っているようです。
神武天皇は国家建設に当たって、東征(東方征伐)を行い6年を経て日本国建国に就いたようです。
「東征についてから6年になった。天津神の威勢のお蔭で凶徒は退治された。」という言葉で始まる就任の御言葉は、「今、世の中はまだ開けていないが、民の心は素直である。人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開の慣わしが変わらずにある。」と述べられ、さらに「山林を開き払い、宮室を造って謹んで尊い位につき、人々を安ずべきである。」と計画され、「その後国中を一つにして都を開き、天の下を覆いて一つの家とする事は、また良い事ではないか。」とされ、日本国が始まったということです。
この御言葉が、明治になって「田中智学」という日蓮宗国柱会の学者により「八紘一宇」という4文字熟語にまとめられ、日本の戦略の基本とされました。
この「八紘一宇」の意味として、「世界中の人々が一つ屋根の基にある兄弟のように平和に暮らすこと」と解する人も居りますが、私は「世界中の人々が屋根のある生活が出来るようにすること」と解釈します。
当時は屋根のある家に住むのは最高の技術を使った生活様式ではなかったでしょうか。「最高の技術をすべての人に与えよう」という思想だとすると、この八紘一宇の元に戦った大東亜戦争の意味もよく判りますし、現在のODA(政府開発援助)も、この八紘一宇が基本となっていることになるでしょう。
このようにして始まった我が国の歴史です。
ではなぜ神武天皇は国家建設をこの時考えたのか、それについて、いまから2600年前にヨーロッパで古代エジプトが消滅していることと関係ないでしょうか?
メソポタミヤ文明なども滅亡していますが、3000年くらい前からヨーロッパでは盛んに国家が出来たり戦争をしたりする時代になってきています。
北方からヘブライの文明が入って来たからではないでしょうか。ヘブライは一神教です。多神教で穏やかな農業生活を営んでいた国家は、次第にヘブライの文明に押し流され、危機感を抱いたグループが東へ移住していったのではないでしょうか。
麦の農業技術者が、東アジアで米を知り、米の水耕栽培を確立しながら、水のふんだんにある土地を求めて日本列島にたどり着いたという、そんな推理を考えました。
古代エジプトには「ラー神」という太陽の神が居ましたから、そのシンボルが日の丸の原型なのかも知れません。
「天皇」の発想が「ファラオ」の発想と同じではないかとも考えたのです。ファラオを「王家」と称するのはヘブライの発想です。ヘブライの文化ではファラオを説明できないのです。同じように、「天皇」をヘブライ系の文化で説明することが出来ません。
GHQも最後まで天皇を理解できませんでした。敗戦国の王は国民によって処刑されるとの思いで、戦後の巡幸を許可したGHQは、各地で大歓迎される昭和天皇を見て、それでも理解が出来なかったと言います。
神武天皇から現在までの時間軸の、ちょうど真ん中当たりに登場するのが「聖徳太子」です。自らを「厩戸の皇子」と名乗った大使は、実在の人物ではなく、蘇我入鹿とそのチームだったのではないかと思います。蘇我氏は外来の氏(うじ)で、物部が日本の伝統を継承する氏だったとも記されています。
もしかしたら、古代エジプトのシステムに対してヘブライが後を追っかけて日本に来ていたのかも知れませんね。「厩戸の皇子」がイエス・キリストをイメージさせることから、ローマ帝国の文化も含まれていただろうと想像するわけです。
聖徳太子が「7人の言うことを同時に聞き分けた」とは、ヘブライ系の言語(7か国語)を理解できたことを意味しているのかも知れません。
17カ条の憲法は、十戒をイメージさせます。 「和をもって貴しとなす」という意味が、議会制民主主義を示していたと考えれば、民主国家・日本はこの時に出来たとも言えるのではないでしょうか。
そしてこの時に行われたことが、天皇を政治の実権から切り離し、政治は公家が行うという取り決めです。天皇が「王」ではなく、ファラオの流れであることがこの新しいシステムを容易に実現出来たということではないでしょうか。
こうして公家のシステムは「飛鳥」「奈良」「平安」と500年近く続くわけです。しかし公家の既得権が貧富差を拡大してしまい、平家という軍人がのさばってしまったことで崩壊します。
「鎌倉」時代から政治の実権は武家が握り、「室町時代」から「戦国の世」となり、「安土桃山」にて日本の近世が始まるわけです。
そして「江戸時代」まで、我が国はそれほど外国の干渉を受けることなく、おそらく古代エジプトとヘブライの文化を意識しないで独自の文化を培ってきました。
天皇システムは、間違いなく今から2676年前から始まったのでしょう。
あと24年で、紀元2700年になるわけです。その時、八紘一宇という日本の世界戦略が今よりも進展し、世界がヘブライの弊害(略奪資本主義)から脱却していることを望むのですけど・・・
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