沖縄県知事選挙が混迷する中で、沖縄を中共に売ってしまおうと言うサヨク県民の活動があるそうです。
「龍柱」建設もさることながら、朝貢国のような儀式を行う人たちも居て、琉球の服装や日本語と異なる琉球古語を持ち出し、「これこそが我々の言葉だ」と言いたいような行為も始まっているようですね。
沖縄の昔の名前が「琉球」だった・・・と誰もが思っているのではないでしょうか。
「沖縄の声」のキャスターを務める江崎孝氏が調べたところ、それは逆だと言うことです。すなわちオキナワこそが古くからの呼び名で「琉球」が新しい呼び名だと言うことです。
もともとリュウキュウとは、台湾島の呼び名だったとか。14世紀になって、オクナワが始めて明国に朝貢した時、「大琉球」として名乗ったようです。台湾の「琉球」よりも大きい(活発な)存在をアピールしたかったのではないでしょうか。
江崎氏によりますとこの大琉球はその後消滅してしまったそうです。
では、14世紀以前にはなんと呼ばれていたか・・この列島が始めて文献に登場するのは、753年の鑑真和尚が聖武天皇に請われて仏教の戒律を伝えるために、何度も失敗を繰り返しながら島づたいにやってきた時のことを記した文献に出ているそうです。(唐大和上東征伝)
そこでは、オキナワを「阿児奈波」と言う漢字で記されているとのことですが、これを「アゴナワ」と読んだのかのか「オキナワ」と読んだのかは判りません。
しかしこの後に「益久島(屋久島のこと)」と続き、「防町秋目浦(これは鹿児島のこと)」と続いていることから「阿児奈波」が沖縄を指していることは間違いありません。
鑑真は、防町秋目浦から翌年の754年に難波(大阪)に入り、そして河内(今の京都)に入ったと言うことです。
では「琉球王国」とは何であったのか・・・
1609年、薩摩の島津藩が沖縄に侵攻しています。しかしそれまで沖縄の公文書はほとんどが「ひらがな(万葉仮名?)」で書かれているそうですね。
ですから日本文化圏であったことは間違いないとか。
徳川政権は、その後鎖国政策を始めます。鎖国といってもそれは管理貿易のことで、徳川幕府が外国との交易を独占することが狙いで、すなわち徳川軍事政権が貿易を独占したわけです。
軍事政権ですから、外国からの軍事的圧力は抑えられ、物品の交換だけが行われたわけですね。
このことに不満だった島津藩(薩摩)は、自分たちも外国との交易で利益を得ることを画策、そこで沖縄に琉球王国なるものを仕立て上げたのだとか。
もちろん徳川政権に申し開きが立つようにしなければ「謀反」として成敗(お取り潰し)されてしまいますから、沖縄は独立国「琉球王国」であるというシナリオを考えたのでしょう。
そこで服装も「中華風」にして、いかにも中華文明的なものがそこにあったような偽装工作をしたということですね。
この時、公文書なども漢文調にして、徳川の目を誤魔化したとか。
こうして薩摩は、この迂回貿易によってかなり利益を出していたようです。
現在、「守礼門」とか「首里城」を見ても何となく重みを感じないのは、もともとが「偽装国」だったからかも知れませんね。
もしかしたらこの琉球王国に「清国」への朝貢外交をさせたのは島津藩だったのかも知れませんね。こういうわけで琉球王国は「清国」と「日本」と両方に属することとなり、極めて不自然な(不安定な)外交をさせられ、島民が酷税に苦しむことになりました。
徳川政権が終わって明治となり、すぐに(明治4年)に廃藩置県が始まり、時の琉球国王「尚泰」を琉球藩王に封じ華族として、まずは琉球藩として、その後に(明治12年)琉球藩の廃止と沖縄県設置を全国に布告しました。
島津藩が偽装していたのでややこしくなったのでしょう。しかし薩摩は官軍、罰することは出来ません。ですから世に言うこの「琉球処分」となったのでしょう。(徳川政権であれば薩摩処分だったのかも)
つまり琉球処分とは、「琉球藩廃止・沖縄県設置」のことであり、偽装国家「琉球王国」を、昔からの「沖縄」に戻し、日本の「沖縄県」とすることを明示したことを示す言葉です。(勝てば官軍なのですね)
大陸国家「華人の国」は、「清国」に至るまで海洋進出は考えていなかったようです。ですから沖縄も台湾もそれほど重視せず、陸続きの国家との対峙が政治の課題でした。
「中華人民共和国」となってから、始めて海洋進出を考え始めたようです。しかしどんなに海軍を強化しようと、近代的な軍艦を作ろうと、現在の華人の頭の中は「大航海時代」の頃になっているようですね。
資源の確保を狙って、艦船で侵略すると言うパターンがそれを示しています。
沖縄県民は目覚め始めています。すでに「沖縄サヨク」は劣勢にあるようです。
まあ。結果は沖縄県知事選が終わってみないと判りませんけど・・・
沖縄の昔の名前が「琉球」だった・・・と誰もが思っているのではないでしょうか。
「沖縄の声」のキャスターを務める江崎孝氏が調べたところ、それは逆だと言うことです。すなわちオキナワこそが古くからの呼び名で「琉球」が新しい呼び名だと言うことです。
もともとリュウキュウとは、台湾島の呼び名だったとか。14世紀になって、オクナワが始めて明国に朝貢した時、「大琉球」として名乗ったようです。台湾の「琉球」よりも大きい(活発な)存在をアピールしたかったのではないでしょうか。
江崎氏によりますとこの大琉球はその後消滅してしまったそうです。
では、14世紀以前にはなんと呼ばれていたか・・この列島が始めて文献に登場するのは、753年の鑑真和尚が聖武天皇に請われて仏教の戒律を伝えるために、何度も失敗を繰り返しながら島づたいにやってきた時のことを記した文献に出ているそうです。(唐大和上東征伝)
そこでは、オキナワを「阿児奈波」と言う漢字で記されているとのことですが、これを「アゴナワ」と読んだのかのか「オキナワ」と読んだのかは判りません。
しかしこの後に「益久島(屋久島のこと)」と続き、「防町秋目浦(これは鹿児島のこと)」と続いていることから「阿児奈波」が沖縄を指していることは間違いありません。
鑑真は、防町秋目浦から翌年の754年に難波(大阪)に入り、そして河内(今の京都)に入ったと言うことです。
では「琉球王国」とは何であったのか・・・
1609年、薩摩の島津藩が沖縄に侵攻しています。しかしそれまで沖縄の公文書はほとんどが「ひらがな(万葉仮名?)」で書かれているそうですね。
ですから日本文化圏であったことは間違いないとか。
徳川政権は、その後鎖国政策を始めます。鎖国といってもそれは管理貿易のことで、徳川幕府が外国との交易を独占することが狙いで、すなわち徳川軍事政権が貿易を独占したわけです。
軍事政権ですから、外国からの軍事的圧力は抑えられ、物品の交換だけが行われたわけですね。
このことに不満だった島津藩(薩摩)は、自分たちも外国との交易で利益を得ることを画策、そこで沖縄に琉球王国なるものを仕立て上げたのだとか。
もちろん徳川政権に申し開きが立つようにしなければ「謀反」として成敗(お取り潰し)されてしまいますから、沖縄は独立国「琉球王国」であるというシナリオを考えたのでしょう。
そこで服装も「中華風」にして、いかにも中華文明的なものがそこにあったような偽装工作をしたということですね。
この時、公文書なども漢文調にして、徳川の目を誤魔化したとか。
こうして薩摩は、この迂回貿易によってかなり利益を出していたようです。
現在、「守礼門」とか「首里城」を見ても何となく重みを感じないのは、もともとが「偽装国」だったからかも知れませんね。
もしかしたらこの琉球王国に「清国」への朝貢外交をさせたのは島津藩だったのかも知れませんね。こういうわけで琉球王国は「清国」と「日本」と両方に属することとなり、極めて不自然な(不安定な)外交をさせられ、島民が酷税に苦しむことになりました。
徳川政権が終わって明治となり、すぐに(明治4年)に廃藩置県が始まり、時の琉球国王「尚泰」を琉球藩王に封じ華族として、まずは琉球藩として、その後に(明治12年)琉球藩の廃止と沖縄県設置を全国に布告しました。
島津藩が偽装していたのでややこしくなったのでしょう。しかし薩摩は官軍、罰することは出来ません。ですから世に言うこの「琉球処分」となったのでしょう。(徳川政権であれば薩摩処分だったのかも)
つまり琉球処分とは、「琉球藩廃止・沖縄県設置」のことであり、偽装国家「琉球王国」を、昔からの「沖縄」に戻し、日本の「沖縄県」とすることを明示したことを示す言葉です。(勝てば官軍なのですね)
大陸国家「華人の国」は、「清国」に至るまで海洋進出は考えていなかったようです。ですから沖縄も台湾もそれほど重視せず、陸続きの国家との対峙が政治の課題でした。
「中華人民共和国」となってから、始めて海洋進出を考え始めたようです。しかしどんなに海軍を強化しようと、近代的な軍艦を作ろうと、現在の華人の頭の中は「大航海時代」の頃になっているようですね。
資源の確保を狙って、艦船で侵略すると言うパターンがそれを示しています。
沖縄県民は目覚め始めています。すでに「沖縄サヨク」は劣勢にあるようです。
まあ。結果は沖縄県知事選が終わってみないと判りませんけど・・・
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