あまり前宣伝された映画ではありませんが、大空の英雄「レッド・バロン」の史実に忠実な映画化というふれ込みでしたから観てきました。
映画としてはそれほどの出来ではないようですが、なにしろ2時間の大作でCGを駆使した空中戦は観ている方も疲れました。
この手の映画によくある事ですが、最初は英雄気取りで参加した戦争で、やがて戦争の現実を見て疑問を感じ、やがて戦争の愚かさに気が付いて行く・・・という構成、この映画もそのようなシナリオになっていました。実際はそんなことではなかったでしょうけどね。(ドイツ軍が英語で話すのはやめて欲しいですけど・・)
リヒトホーフェンの有名な台詞でしたか、「兵士達に言ってやれ、クリスマスまでには帰れるだろう」と言うくだりはありませんでした。でも、「大儀を失った戦争はもう戦争ではない、単なる殺し合いだ!」という台詞は出てきています。実際には「こんなのは戦争じゃない、単なる殺し合いじゃないか・・」と言ったのだとか。
ヨーロッパは、貴族社会の平和維持ということで、やたらと政略結婚がなされ、国が違った親戚同士のお付き合いで、はなやかな社交が繰りひりげられていました。しかし、親近憎悪ということも当然あるわけで、そこに国家の利害関係がからんで、第一次世界大戦の複雑怪奇な泥沼の戦いがダラダラと5年も続いたのです。
戦いの意識は中世の戦争のイメージ。ですから大戦の初期には兵士達はほとんどリヒトホーフェン男爵と同じような考えだったはず。しかし、産業革命後の世界で、経済は各国とも貿易依存。
国益を掛けた戦いに、近代技術が加わって兵器の進歩は日を追うごとに進化、即ち大量殺戮兵器に変わって行きます。(この映画は、そこがうまく描けていましたね)
近代兵器の怖さを世界で始めて体験したのはアメリカの「南北戦争」。そしてその直後に日本の「明治維新」が続きます。ともに内戦でありながら、その残酷さと死者数の多さに唖然とした両国。アメリカはアーリントン墓地を造り、日本は靖国神社を作り、多くの英霊を祭りました・・が、さらに兵器開発には拍車がかかります。(産業主義の宿命でしょうね)
その後の日清・日露の戦争で始めて近代兵器の恐ろしさが世界中に伝わりました。ヨーロッパから見学に来るような戦争でしたね。そしてその結果は、さらなる近代兵器の発明と改良。飛行機が登場して戦争のやり方がさらに大きく変わってきました。しかし人の心にある戦争はまだ昔のままの牧歌的戦争でした。そして第一次世界大戦が始まってしまったわけですね。
リヒトホーフェンが何故、軍規に反してまでも機体を赤く塗ったのか・・・そこには正しい戦争をしようとする彼の美学があったのでしょう。「戦争=悪」とする戦後日本の感覚では判らないでしょうが、ここには三島由紀夫氏にも通じる美学を感じるのです。
「目的は撃墜であってパイロットを殺すことではない!」と言い放ち、敵パイロットを執拗に追って殺した弟をなじるマンフレート・フォン・リヒトホーフェンに、それが時代錯誤であっても、どこか共感するのは世界中同じようですね。このシーンはシナリオライターの創作でしょうけど。
この時代錯誤ゆえに、いまも語り継がれるレッド・バロンの伝説的物語。
闘争心を失えば人間は堕落してしまう。しかし闘争心をむき出しで頑張れば最終的には核戦争にまで行き着いてしまう現在。行き場のなくなった闘争心が社会をゆがめ、非人道的事件が絶え間なく発生する近代の現実。だからこそレッド・バロンの美学が今も共感を呼ぶのではないでしょうか?
近代兵器の進化はその後も続きました。第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、ソ連崩壊後の東ヨーロッパ内戦、ニューヨーク9.11テロ戦争、アフガン戦争、イラク戦争・・・
そしていよいよ日本海と東シナ海を舞台にした日中戦争が始まりそうで、北方領土をめぐる日露戦争も間近に迫っているのかも知れません。
戦術の手法も、平和技術が逆手にとられた情報戦となって、マスコミ、インターネットが活用され始め、売買による領土侵略、コマーシャルに埋め込まれたプロパガンダ戦術など、手の込んだものになってきました。
実力行使の戦闘には人間ではなくロボット兵器(無人爆撃機)が登場し、テロ戦争の常である民間人の虐殺も平気で行われるようになってしまいました。戦争の大儀は薄れ、各国とも国益しか考えません。第一次世界大戦のあの時のように。
こんな時代、牧歌的戦争を回顧するようなレッド・バロンの美学に触れるのも、意味があるのかも知れませんね。
0 件のコメント:
コメントを投稿