佐賀県の高校の男子生徒が、ツイッターにアナグマの死骸の写真を投稿し「バットでぶち殺してやった(笑」と書き込んだそうです。
それを見た閲覧者から、その高等学校に300件ほどの苦情が届いたとか。また、インターネット上では「ひどい」「逮捕しろ」といった批判がなされ、生徒は同日中にその投稿を削除したそうです。
生徒の自宅には畑があり、アナグマに荒らされて困っていたという事実があります。所属の自治体に駆除を申請していたこともあって、朝、自宅の玄関先に居たアナグマを見つけた生徒は、その時持っていたバットで殴り倒したようです。
生徒は、駆除したことを両親に報告するために写真を撮ったということですが、問題はその後、それをSNSに発表してしまったところから、苦情や批判を受けるようになってしまったわけですね。
それは、この生徒にとってアナグマは「畑を荒らす害獣」だったことに比して、苦情をする一般の閲覧者にとっては「かわいいアナグマちゃん」だったようにも思います。
アニメーションなどで擬人化されて表現されるアナグマは、可愛くてけな気に描かれますが、現実のアナグマは畑を荒らす害獣でしかありません。このイメージのアナグマと現実のアナグマの違いが、この出来事の核にあるのではないでしょうか。
また、日本文化の持つ死生観にも触れてしまった可能性もあります。
日本文化は、「殺す」ことに関して否定的ではありません。人も含めて「殺す」ことを必要とも考える文化です。
重要なことは、「無益な殺生をしてはならない」という考え方なのです。
魚を釣ってその死骸を一般に晒すために「魚拓」にしたりします。また、鹿を殺してその角を飾り物にしたりもします。
しかし、釣った魚を食べてしまえば、それは「無益な殺生」にはなりません。鹿とて同様です。
もし、放置して腐らせるようなことをすれば、それが「無益な殺生」であって忌み嫌われるわけです。
これは動物だけに言えるのではなく、人間に対しても同じことを適用しています。殺した方が良い人物は殺してもいいわけです。しかし無益に殺せばやがて自分も殺される側になってしまいます。「有益な殺人」と言うのがあるのかどうか、それは場合によるわけで、その判断は自分自身がしなければなりません。正当防衛もその一つですが、ようするにその判断が出来るようになることが、「修行」という教育システムだったわけです。
カエルや昆虫を子供達が面白半分に残酷な殺し方をしていれば、それを見たお寺の和尚さんが「これこれ、無益な殺生はするでない」と言ってたしなめます。これが日本の教育の原点ではないでしょうか。
人間は物を食べます。食べ物とは要するに死骸です。他を殺して自らが生きるわけですから、殺すことを否定はできません。で、生きていく自分は有益な人物でなければならないわけですね。そして「有益な自分」になるように日々務めることが、いわゆる「修行」で、我が国の昔からの教育システムです。
武士の修行が「武者修行」と言うわけですが、武士でなくとも、匠の道も修行です。百姓をやっていても修行は出来ますし、商人でも修業は出来ます。それぞれの生活の中での「気づき」に心を止めれば良いわけですね。
さて、この生徒の場合、「畑を荒らすアナグマに両親が困っていた」のであれば、自分に何かできることは無いかと考えたことでしょう。
ある朝、玄関を開けた時目の前に当のアナグマがいて、その時手にバットを持っていたら、反射的にでもそのアナグマを攻撃したでしょう。
それは両親の為であり、畑を守る為でもあったわけです。しかし「撲殺」してしまった後、興奮したまま写真を撮りSNSで晒し者にして、「ぶち殺してやった(笑」と書き込んだところに、修行の浅さ(=弱さ)が見えるわけです。(若者です。仕方ありませんけどね)
そこまで考えて「不快だ」「酷い」という苦情を行った人が居れば、それはこの生徒にとっての教育となる得るわけです。
現在、この生徒がどのような心境にあるのかは判りませんが、もしこの出来事を活かしたいなら、そのアナグマの亡骸をお寺に運んで、住職に経緯を話し、荼毘に付し経を読んでもらえばいいのではないでしょうか。そしてその時、「この出来事を無駄にせず今後さらに自分を磨く」ことを約束することが出来れば、きっと将来日本の為になる優秀な人材となって行くことでしょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿