トランプ大統領は大統領に就任した2017年の11月7日に、「共産主義犠牲者の国民的記念日」を宣言しております。
ホワイトハウスから発信したもので、この時すでに対中戦争をいしきしていたものと思われます。
宣言には・・・
「前世紀(20世紀)から、世界の共産主義者による全体主義政権は1億人以上の人を殺害し、それ以上の数多くの人々を搾取、暴力、そして甚大な惨状に晒しました。このような活動は、偽の見せかけだけの自由の下で、罪のない人々から神が与えた自由な信仰の権利、結社の自由、そして極めて神聖な他の多くの権利を組織的に奪いました。自由を切望する市民は、抑圧、暴力、そして恐怖を用いて支配下に置かれたのです。」と述べております。
その上で、「この共産主義の犠牲者を悼み、現在もまだ共産主義の元で苦しむすべての人々に思いを寄せます」として、反共産主義を訴えております。
共産主義の元はカール・マルクスという哲学者が書いたもの。マルクスは1818年、父のユダヤ教ラビだった弁護士ハインリヒ・マルクスと、オランダ出身のユダヤ教徒ヘンリエッテ(Henriette)という母の間に生まれたユダヤ人です。
1835年にボン大学の法学課に入りますが、素行不良な学生だったらしく、酔っぱらって狼藉を働いたとされて一日禁足処分を受けたり、貴族の学生と決闘をして、この時にピストル不法所持で警察に一時勾留されたりもしているそうです。
このような生活で、浪費も激しく、父ハインリヒは「まとまりも締めくくりもないカール流勘定」を嘆いたそうです。
この父が、ボン大学で遊び歩くマルクスを翌年ベルリン大学に転校させます。ベルリン大学は厳格をもって知られている大学なので、少しは真面目に勉強するだろうとの期待もむなしく、詩や美術史への関心を持ち続け、それにローマ法への関心が加わって、哲学に最も強い関心を持つようになったようです。
1836年冬、病気になってシュトラローという療養地でヘーゲル哲学に出会い、病気が治癒した後にヘーゲル左派寄りのエドゥアルト・ガンスの授業を熱心に聴くようになったと言います。
しかし放埓な生活は変わらず、父親は「裕福な家庭の子弟でも年500ターレル以下でやっているというのに、我が息子殿ときたら700ターレルも使い、おまけに借金までつくりおって」と嘆いていたそうです。
1838年にその父親が亡くなり、カールは法学を捨て大学に残って哲学研究に没頭したそうです。
そして1841年に学位を取得し大学教授になろうとしますが、ブルーノ・バウアーという無神論者と友人関係になり、ボンで無頼漢のような生活を送ります。飲んだくれ、教会で大声をだして笑い、ロバでボンの街中を走りまわったりして、反キリスト教のパロディー本を出版したりすることで、マルクスの進路は大学も官職も絶望的となってしまいます。(当たり前ですね)
その後社会主義者のモーゼス・ヘスなどがヘーゲル左派の新人カール・マルクスを「マルクス博士は、まだ24歳なのに最も深い哲学の知恵を刺すような機知で包んでいる。ルソーとヴォルテールとホルバッハとレッシングとハイネとヘーゲルを溶かし合わせたような人材である」などと絶賛し、反政府・無神論的傾向をもつ「ライン新聞」に投稿させます。
そしてこの新聞が当時の「検閲」にひっかかり、編集長が辞めさせられます。そのあとを引き継いだのがマルクスでした。
彼は家熱当局に対して「これまでの我々の言葉は、全てフリードリヒ大王の御言葉を引用することで正当化できるものですが、今後は必要に迫られた場合以外は宗教問題を取り扱わないとお約束いたします」という誓約書を提出して新聞を続けます。
その後、プロイセンと神聖同盟を結ぶロシア帝国を「反動の支柱」と批判して「ライン新聞」は廃刊となり、年上の女性と結婚したりして、ヘスやハイネ、エンゲルスとの付き合いが深化していったようです。
そしてエンゲルスが「国民経済学批判大綱」という論文を書くと、それに感銘を受けたマルクスは、経済学的見地から「労働する人間」と明確に規定するようになり、「生産的労働を行って、人間の類的本質を達成することが人間の本来的あり方であるが、しかし市民社会では生産物は労働者の物にはならず、労働をしない資本家によって私有・独占されるため、労働者は自己実現できず、疎外されている」という考え方に至り、自分の立場を「共産主義」と定義しました。
こうして「共産主義」が生まれたわけですが、その後もこの「共産主義」は各国政府の批判を受け、やがてマルクスは唯物史観から「プロレタリア革命の必然性」を言い出します。
「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という名の妖怪が」という文句で始まる「共産党宣言」は、階級闘争を軸としてブルジョワとプロレタリアの2つの階級に別けて、ブルジョワに封建主義を打倒するブルジョワ革命をさせて、封建主義体制を転覆させることに成功したら、ただちにブルジョワを打倒するプロレタリア革命を開始するとしています。
要するに暴力革命であり、この暴力には暴力を持って対抗するのは当然で、さまざまな国で貧困層を軸に革命闘争が繰り広げられました。
1871年にはプロレタリア独裁政府パリ・コミューンを樹立して、共産主義をインターナショナル陰謀論、マルクス陰謀論、ユダヤ陰謀論、などと呼ぶようになります。(インターナショナルとは、国際労働者協会と訳されていますが、ヨーロッパの労働者が国家を超えて団結した国際政治結社のこと)
パリ・コミューン革命が起こり、そしてその崩壊などを繰り返しながらも、やがて英国(ロンドン)やスイスにまで広がって行きます。リンカーンの奴隷解放政策を支持したりしていますが、やがて肝臓肥大という深刻な病に侵されて、ロンドンに帰ったマルクスですが、1883年3月14日昼頃に椅子に座ったまま死去しているのが発見されました。享年64歳でした。
その後共産主義革命はロシア革命となって、ボリシェヴィキ日着る革命が勝利してソビエト連邦が生まれます。そして共産党内部の葛藤と内戦を経て、1918年にソビエト憲法を採択したロシア・ソビエト大会で
共産主義独裁国家「ソビエト連邦」が生まれるわけです。
もともと暴力革命から生まれた共産主義ですから、その後も陰謀と虐殺が続き、権力志向になって崩壊していくわけですが、その間に多くの人々が殺されたことも間違いありません。
トランプ大統領は昨年の11月7日の共産主義犠牲者の国家的記念日に、「共産主義に圧迫され命を奪われた1億人の人々を追悼する。我々は、平和と繁栄に基づく民主の核心的価値、すなわち自由、正義と個々の生命の価値に対する深い尊重を再確認し、すべての人々が平和と繁栄の未来を確保することを支援する。」と演説しています。
そして「ベルリンの壁崩壊30周年記念でもある11月9日、私たちがこの記念日に世界各地の共産主義の被害者たちに敬意を表する時、私たちは決心しなければならない。大切にしている自由を守り、平和を促進し、そして無比の繁栄を解き放つ。我々が手を携え、協力することで、共産主義のない未来を作ることができる。」と述べました。
それにしても、この「共産主義犠牲者の国家的記念日」があまり報道されず、日本国内で盛り上がらないのは、それだけ日本の報道機関が共産主義に神道されている証のような気になります。
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